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チャップリンをテロから守れ! 全身全霊で仕えたある日本人の物語/5月14日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.05.14 09:30 最終更新日:2021.05.14 09:34
1932年5月14日、喜劇王・チャップリンを乗せた船が神戸港へ到着した。港には、チャップリンを一目見ようと数万人のファンやマスコミが押し寄せ、来日を歓迎した。
船から出てきたチャップリンの隣には、兄のシドニーともう1人、日本人の男・高野虎市がいた。チャップリンの運転手兼秘書として長年仕えた人物だ。
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日本チャップリン協会会長で、6月に『ディズニーとチャップリン』(光文社新書)を刊行する大野裕之さんが、こう語る。
「広島に生まれた高野さんは、古い因習のすべてを嫌がり、わずか15歳ながら、遠い親戚を頼って渡米します。アメリカでは、日本人ながら現地の駅の赤帽たちの業務を取りまとめる役割を果たすなど、非常に交渉力に優れた人物だったようですね。
さまざまな仕事を経験しますが、経営者の運転手を主にやっていました。あるとき顧客が急逝してしまい、次の働き口を探していたところ、『いま大活躍中のハリウッド俳優が運転手を探している』と紹介されたのが、チャップリンだったのです」
チャップリンと高野の面接は3言で終わった。当時27歳だったチャップリンは、ホテルのベッドの上で朝食を摂っているところで、高野を見るなり「君は運転ができるのか?」と尋ねた。高野が「はい」と答えると、「僕はできないよ! 君はかっこいいね」とにっこり笑ったという。
「なんだか映画に出てくるようなエピソードですが、ここで高野の人種について一言も触れなかったのは、非常にチャップリンらしいと思います。
当時、アメリカでは日系人に対する偏見や差別があったにもかかわらず、『日本人ですか?』などと聞かなかった。あらゆる人種に対して偏見なく、公平に接するチャップリンの性格が感じられます」(大野さん)
無事に合格した高野は、チャップリンの運転手として着実に仕事をこなし、信頼を得ていく。「チャップリン」と書類にサインすることも許可されており、1917年には『冒険』という作品に運転手役として出演。チャップリンに何かを頼むには、まず高野に話を通せ、と業界内でささやかれるようになった。
「もちろん、チャップリンという天才の世話役として、苦労したことも多かったでしょう。
僕はチャップリン研究家としていろんな人の話を聞きましたが、直接関わった人たちから、チャップリンの悪口を聞いたことは一度もありません。
みなさん『あの人は面白くて天才だった』と話すのですが、たいていは『でも、時間の概念はなかった』とおっしゃって(笑)。時間どおり動くことはほとんどなく、気まぐれだったようです」(大野さん)
高野自身は、チャップリンに振り回されながらも、世話役としてそばにいられることに喜びを感じていた。「難しいけど、ひきつけられる人だ。頭の回転も速い。僕をここまでにしてくれたチャップリンに尽くさなくては」と話していたという。
1932年、チャップリンの来日に同行した高野だが、心中は穏やかではなかった。実は、チャップリンを暗殺するという計画があったのだ。
「当時は、日本において軍国主義が台頭し、戦争の色が濃くなっていました。海軍の古賀清志中尉が、陸軍士官候補生たちを誘い、議会を襲撃する計画がありました。
しかし、来日が報じられたことから、チャップリンを襲撃する新計画が立てられました。ですが、気まぐれなチャップリンはなかなか来日せず、古賀たちはいったんターゲットから外します。そこにきて、5月15日に歓迎会をおこなうという情報が飛び込んできたので、古賀たちは色めき立つのです」
一説には、高野は『チャップリンの命が狙われているらしい』との情報を掴んでいたという。そのため、事前に日本を訪れ、犬養毅首相の息子である首相秘書官と面会し、安全を確保するさまざまな手段を講じていた。
たとえば、国粋主義者たちを懐柔するため、チャップリンを皇居前で一礼させ、その姿を新聞に撮らせることで、皇室に対するリスペクトの意を世に示している。
「来日の翌日が首相による歓迎会でした。今になって考えれば、ひとしきり神戸や京都で遊んでくればいいのに、すぐに東京へ来させてしまった点は、チャップリンを危険に近づけたとも言えます」(同)
きまぐれなチャップリンは、5月15日に予定されていた犬養首相による歓迎会を突如キャンセルする。気が変わり、「相撲が見たい」と言い出したのだ。
歓迎会はなくなったが、その情報を知らなかった海軍将校たちは首相官邸に突入し、犬養首相を暗殺してしまう。いわゆる5.15事件だ。首謀者の古賀は、チャップリン暗殺を企てた理由を、裁判でこのように語っている。
「5月15日、首相官邸でチャップリン歓迎会が催されることを新聞で知った。そのときは多くの支配階級の人間が集まるだろうから、攻撃するには最適だと考えた。これで日米関係を困難なものにして、人心の動揺を起こし、その後の革命をすみやかに進展させられると考えた」
翌日、事件を知ったチャップリンは「明日にでも帰る」と騒いだが、16日の午後になると突然「天ぷら!」と叫び、銀座へ向かった。伝統芸能好きだったことから、歌舞伎や文楽を楽しむなど、ひとしきり楽しんだのだ。
チャップリン自伝には、「日本の思い出が、すべて怪事件と不快ばかりだったわけではない。むしろ全体としては、非常に楽しかった」と記されている。
「その後も高野さんはチャップリンに仕え続けるのですが、最初の出会いから16年後、2人に別れが訪れます。
チャップリンの新しい恋人と気が合わず、揉めたことがきっかけで、チャップリンから『お前はクビだ!』と言われた高野さんは、怒ってそのまま家に帰ってしまうのです。
『お前はクビだ!』というのはチャップリンの口癖で、本当にやめるとは思ってなかったようですね。
しかし、高野さんはそれから一度も撮影所に来ませんでした。チャップリンは、高野さんが海釣りしているところを何度か訪れるのですが、世間話をするだけで、戻ってこいという話は一切なかったと、高野さんがインタビューで明かしています。
それきり2人は別れてしまいますが、莫大な退職金を用意していましたから、『解雇』という言葉はそぐわないと思います。円満退社と言えるでしょう」
晩年になって、チャップリンは再び日本を訪れている。1961年のことだ。このとき日本に戻っていた高野さんに、周囲は「会いに行けば」とすすめたが、頑として聞かなかった。
「高野さんの晩年のことをよく知る方から聞いたのですが、高野さんはこのとき、『もう昔の話だ、会わない』と目を真っ赤にして泣きながら話していたそうです。
一方、チャップリンの娘であるジョセフィンさんからは、『父はよくコーノの話をしていました。秘書について話すというより、まるで友達のことを話すような表情だった』とお聞きしています。
どちらも、会おうと思えば会えたはずですが、意地やプライドがあったのでしょう。2人の関係性は、喜劇王とその秘書というものではなく、男同士の友情であったと私は思います」
写真提供:ユリコ・ナダオカ/日本チャップリン協会