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娼妓に「外出の自由」認める…改革されていく「性風俗」管理/5月23日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.05.23 06:00 最終更新日:2021.05.23 06:00
1933年(昭和8年)5月23日、内務省が「娼妓取締規則」を改正する。これにより、娼妓(当時の売春婦)に初めて外出の自由が与えられた。
明治維新により文明開化が進んでも、娼妓たちを取り巻く構造は、江戸時代を引きずったままだった。
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年若い女性たちが身売りされ、自由を奪われ、自身を商品にする。1900年(明治33年)、明治政府により「娼妓取締規則」が制定されたものの、状況はさして変わらなかった。関西大学社会学部教授で、風俗史を研究する永井良和さんに話を聞いた。
「当時は、親に売られた、あるいは親元からさらわれたような女性が、娼妓の世界に入るような時代でした。年若い子も下働きとして働かされる有様で、いまの人権感覚からするとひどいものです。
明治政府としては、国際社会の目を恐れたところもあったのでしょう。1900年の取締規則では、18歳以下の女性を働かせることを禁じたほか、新吉原や新宿など、指定された土地以外での営業を禁じました。
加えて、代替わりの禁止も入ります。いまの風営法も同じですが、新規に開店するのは難しいが、開業済みなら既得権に守られます。こうした既得権や、店の設備などを自由に売買させると、ずっと営業が続くことになる。そのため、取り締まる側は、一代限りという制限をかけるんです。これは風俗営業に限らず、屋台なども一緒で、一代限りという制限で、徐々に数を減らしていく目論見です」
風俗業を決まった場所に囲い込み、代替わりを禁じることで、数を減らしていく――だが、そうした意図は、なし崩しになることが多い。
「結果的に、政府公認のいわゆる『公娼』以外に、個人で勝手に商売を始めてしまう『私娼』たちが世にあふれることになりました。あまりに数が多くて警察もなかなか取り締まれず、なかば公然と商売を続けることはよくありました」
女性団体などの活動もあり、娼妓取締規則は何度か改正される。その流れのなかで、娼妓たちに移動の自由も認められたわけだ。
「少しずつ取り締まりの内容は緩和されていくのですが、とはいえ『娼妓たちをその場所に縛りつける』という考え自体は変わりません。
取締規則は戦後の1946年に廃止されました。日本が戦争に負け、戦前の法律が次々と無効化されるなかで、無法状態が生まれてしまった。そこで、あわてて新しい法律を1946~7年頃に作っていくのですが、それでも『法律は不十分』という状態がしばらく続きます。
結局、1958年に売春防止法が施行されるまで、公娼のような構造は残りました。体罰や拷問といったものは減ったでしょうし、外に出る自由も手に入れましたが、お金で束縛する部分はすぐには変わりません。職業を選んだのは本人の意志だ、借金で縛りつけているわけではないとしながら、実際にはお金に困ってそうした仕事を選択するわけですから。
東京ですと、吉原や歌舞伎町は古くからそうした街で、ずっと店の営業が続いたりします。その一方、郊外に新しく新興の風俗産業ができたりもする。お客さんの質や遊び方も変わっていきました。現在の風営法によって、届け出で認められた性風俗が主流となり、古い時代を引きずった形がようやく廃れていったのです」