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成田空港、当初の候補地は「浦安」や「霞ヶ浦」だった…開港を支えた政治家とは?/6月2日の話

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.06.02 10:15 最終更新日:2021.06.02 10:15

成田空港、当初の候補地は「浦安」や「霞ヶ浦」だった…開港を支えた政治家とは?/6月2日の話

成田空港に初着陸するテスト機(1977年)

 

 1965年6月2日、「新東京国際空港公団法」が公布された。それから13年後、新東京国際空港(現・成田国際空港)が完成し、世界有数の空港へと成長していく。

 

 1960年代に入り、日本の航空需要は激増の一途だった。羽田空港では年間17万5000回の離発着が可能だと想定されたが、1970年ごろにその能力を越えるのは確実視された。また、世界で開発が進む超音速旅客機は、羽田の3000m級の滑走路には着陸できないことも判明する。このままでは、日本の地位は大きく転落してしまうとの危機感が強くあった。

 

 

 そのため、新空港をどこかに作るという話だけが独り歩きし、細部が詰まる前に事態が動いてしまう。驚くことに、1965年に公団の設置が決まった時点で、空港を建設する場所が決まっていなかったのだ。

 

 歴史研究家の濱田浩一郎さんがこう語る。

 

「成田空港の建設場所は、二転三転します。新空港の選定でもっとも問題となったのは『管制権』です。現在もそうですが、日本は第2次世界大戦に負けたことで、東京周辺の管制権を米軍に握られています。西側は厚木基地、立川基地、横田基地などにより、完全に空域を抑えられている。

 

 また、東京湾を埋め立てて新空港を作るとしたら、羽田空港と丸々かぶってしまう。とすると、東京より東側や北側で、しかもあまり遠くない場所に広大な敷地を探さざるを得ない。

 

 その結果、航空審議会は1963年、千葉県浦安沖、千葉県富里村、茨城県霞ヶ浦という候補地を出しました。なかでも富里が最適で、自衛隊百里飛行場との調整が可能なら霞ヶ浦も適当だとされました」

 

 つまり、成田空港は浦安空港や霞ヶ浦空港になる可能性があったのだ。霞ヶ浦は、工事の困難さから候補から外れ、富里が第一候補となるが、いつのまにか現在の場所(三里塚)に変わってしまった。しかし、その経緯はいまだ正確にはわかっていない。

 

「鍵を握ったのは、千葉県が地盤の、川島正次郎という政治家です。川島は、役人や新聞記者といったキャリアを経て政界入りします。初入閣は64歳と遅いのですが、自民党副総裁などを長く務め、常に政界の中心にいました。川島は当初、埼玉、千葉、茨城のどこか内陸に建設することを提案しています。

 

 最終的に富里に内定しますが、いつのまにか三里塚に変更されました。当時の友納武人・千葉県知事は、1995年に産経新聞のインタビューに対し『富里の住民にすれば、近くに三里塚の御料牧場があるのだから、そこを使ってほしいと思うのは自然。そういう考えが自民党などを通して政府・運輸省にも伝わったのではないか』と答えています。ただ、川島が三里塚案を通すため、事前に各所へ話をつけたとの見方もあります」

 

 川島から「とにかく総理と会ってくれ」と促された友納知事は、1966年6月に佐藤栄作首相と会談し、正式に三里塚への建設が決定した。

 

 1978年、住民の反対をよそに、成田空港は開港する。
 川島は、1964年の東京五輪大臣を担当し、新幹線や首都高などのインフラを整備したことで知られる。成田空港もまた、辣腕を振るった一人の政治家の活躍で開港できたのだ。

 

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