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震災で生まれた女性専用アパート…職業婦人の社会進出を支える/6月6日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.06.06 06:30 最終更新日:2021.06.06 06:38
1930年(昭和5年)6月6日、現在の東京都文京区大塚の地に、同潤会大塚女子アパートメントが開館した。事実上、日本で初めての男子禁制の物件として、社会の大きな注目を浴びることになる。
1923年に発生した関東大震災により、多くの家屋が被害を受けた。当時の記録によれば、東京府(現在の東京都)全世帯の47.9%が破損や全壊・焼失したという。
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住宅不足を解消するため、内務省に財団法人「同潤会」が設置され、仮設住宅や木造長屋などが次々と建設されていく。
「同潤会アパートメント」も、こうした復興計画の一環として始まった。震災の経験から、耐久性・耐火性を重視した鉄筋コンクリート構造が採用され、電気やガス、水洗式トイレなど、当時としては最先端の設備を備えた。
長らく同潤会アパートを研究している、東京大学建築学専攻教授の大月敏雄さんに話を聞いた。
「この頃の日本には、4階建て鉄筋コンクリートの賃貸なんてありませんから、建築した側も『本当に入居者はいるのだろうか』と心配したようです。
しかし、実際にはものすごく人気が出たんです。昭和元年に完成した一番最初のアパートメントは、被災者であることが入居条件でしたが、申込書をでっちあげて入居する人もいました。
大塚女子アパートメントができたのは1930年と、復興から少し年月が経った頃でした。ちょうど職業婦人という言葉が出てきた時期で、働く女性たちが安心して住める物件が求められていたんです。
女性専用、つまりは男子禁制で、たとえ父親であっても1階の応接室までしか入れませんでした。
共同玄関の横に管理人部屋があって、半円形の大きい窓から男の出入りをチェックしていたようです。箱入り娘を、都会のなかに住まわせる装置とも言うべきでしょうか。
家賃は、和室四畳半で5万6000~7万。当時の感覚では、金持ちにとっては安いけど、貧乏人にとっては信じられないぐらい高い。上澄みの人たち向けの値段です」
職業婦人たちが、華やかな洋装で颯爽と出入りする大塚女子アパートメントは、新聞・雑誌などのメディアにもずいぶん取り上げられた。世の中からは、憧れ半分、やっかみ半分の視線を浴びたという。
「昔の言葉で、女護島(にょごがしま)というものがあります。女だけが暮らす島で、一見パラダイスに見えるが実際は恐ろしいところ、といった意味合いですが、大塚女子アパートメントは『現代の女護島』などと呼ばれたようです。
それもあながち的外れではなく、当時の同潤会の経営陣に話を聞くと、管理しづらい物件だったそうです。
昭和の時代に職業婦人を選ぶような、きちんと自己主張する鼻っ柱の強いお嬢さんばかり住んでいましたから、いろいろと要望書を出して交渉したようです」
女性たちは、強い主張が回りまわって身を守ることを知っていたのだろうか。戦後、アパートメントが管理問題で揺れ動いたときも、住人たちは東京都へ要望書を提出している。
「戦後になると、同潤会のアパートはいっとき東京都が管理する都営住宅となり、1951年から住民たちに払い下げられていきます。
ところが、大塚女子アパートメントに住む高齢の女性たちが『男子禁制の純粋な空間が守れない』として反対運動したことで、東京都側も手を焼き、最終的に取り壊されるまで都営女子アパートとして存続するのです。
建物は2003年に取り壊されてしまったのですが、そのやり口は強引でした。要は、空き家になるのを待つのです。
管理も一切せず、新しい入居をストップし、ものすごく長い時間をかけると、建物は生き物ですから自然と “枯れて” いきます。
人間も亡くなっていく。アパートにはエレベーターもあったのですが、戦時中から使えなくなりました。80過ぎのおばあさんが、5階建ての建物を階段で登ってられませんから、出ていかざるを得ない。
そうやって1人抜け2人抜け、最終的には取り壊されたのです」
現在は、すべての同潤会アパートメントが取り壊されており、1つも残っていない。
「建物には文化的な側面もありますが、一方で、動かせば何百億というお金になるのも確かです。
同時期にドイツにできたジードルンクというアパートは、建てられて100年以上経つ今も人々が住み、世界遺産になっています。
いま大塚女子アパートメントの跡地には、ただ赤茶けたオフィスビルが建つばかりです。日本は文化的なものより、お金の方が大事なんだと思わざるをえません」