社会・政治社会・政治

日本にもいた「麻薬王」国内に流通する麻薬の3分の1を動かしていた/6月14日の話

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.06.14 10:00 最終更新日:2021.06.14 10:00

日本にもいた「麻薬王」国内に流通する麻薬の3分の1を動かしていた/6月14日の話

麻薬Gメンの手入れの様子(1960年代)

 

 1959年6月14日、当時「戦後最大の麻薬王」と称された王漢勝という人物が、大阪で逮捕された。日本で麻薬取締法が制定されてから、わずか5年後のことだった。

 

 麻薬のなかでも、王が主に扱っていたのはヘロインだ。1954年7月31日の『朝日新聞』には「麻薬大密輸団捕まる 中国人主犯、李金水ほか10名逮捕」という見出しが踊るのだが、この李金水の後釜が王だった。李金水のグループは、当時「戦後最大の押収量」であったとされる15.5kgのヘロインを所持していたとされ、跡目を継いだ王は自動的に国内最大の麻薬王にのしあがる。

 

 

 1959年7月5日号の『週刊読売』では、王が取りまとめていたグループを10年にわたり追いかけたマトリ(厚生省麻薬取締官)に話を聞いている。実際に王と会ったことのあるマトリは、彼の印象をこう語っている。

 

《1.7メートルぐらいで色つやがよく、いかにも大物といったタイプの紳士で37歳という年齢より相当若く見えた。愛想はよかったが日本語はまずい。(中堅がすべて中国人だから、日本語に習熟する機会がなかったのだろう)

 

 社交性に富んでいて、カネ使いがものすごく荒かった。(このカネばなれのよさが、ヤクザをおびきよせるタネになっていたようだ)》

 

 王は、鼻筋の通った涼しげな風貌をしていた。顔立ちもあってか「大鼻王」とのあだ名をつけられたが、おそらくは畏怖や恐怖の感も込められていたのだろう。

 

 グループの密売ルートが徐々に判明していくことで包囲網が狭められ、王は最終的に逮捕される。王は、日本の全麻薬の3分の1を動かし、10年間に400億円以上の利益を上げたとされる。

 

 当時の日本では、麻薬や覚醒剤といった薬物は、どのように扱われていたのだろうか。近現代史研究家の辻田真佐憲さんが、こう語る。

 

「日本では、日清戦争後に台湾に対してアヘン専売を始め、アヘンやモルヒネなどの薬物を国内生産することで、利益を得るようになりました。1935年の国際連盟の統計によると、日本のモルヒネ生産額は世界4位に達していたほどです。

 

 1940年代になると、メタフェミンあるいはアンフェタミンを成分とする覚醒剤が日本で使用され始めました。はじめは『疲れにくい』『眠気を覚ます』と栄養剤のような立ち位置でもてはやされ、各製薬会社から『ヒロポン』や『ネオアゴチン』などさまざまな名前で商品化されます。この頃は、まだ副作用の危険性が認知されていなかったのです。それもあり、太平洋戦争を控えていた日本軍は、戦力増強のため覚醒剤を大量に配布していました」

 

 敗戦後、日本軍が所有していた覚醒剤が市中に流出する。まだ合法だったため薬局で簡単に購入することができた。当時よく使われていたのは「ヒロポン」だったが、乱用すると人によっては興奮や幻覚などの症状が出たことから「ヒロポン中毒」という言葉が世に広まっていく。

 

「特に激務だったであろう芸能人の方々はよく使用していたようです。漫才師から参議院議員になった下村泰という人は、1984年6月におこなわれた国会質疑のなかで『楠木繁夫はギャラの契約をせず、ヒロポンを一升瓶で何本くれるかで仕事を決めた』『霧島昇は幻覚症状に陥り、天井に自身を狙う刺客がいると妄想を語っていた』などと証言しています」

 

 次第に覚醒剤の危険性が認知されるようになり、1951年から「覚醒剤取締法」による規制がおこなわれるようになった。同時期に、「麻薬及び向精神薬取締法」「大麻取締法」「あへん法」を含めた薬物四法が整備される。これらの法律は、今日まで続く薬物規制の基準となっている。

続きを見る

今、あなたにおすすめの記事

社会・政治一覧をもっと見る