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日比谷公園でOLたちが初テニス…難産だった日本初の洋風公園/6月21日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.06.21 06:00 最終更新日:2021.06.21 06:00
1925年(大正14年)6月21日、日比谷公園でテニスコート開場式がおこなわれた。この日は東京市(現在の東京都)による女子実業庭球大会が開催され、白いユニフォームと鉢巻を身につけた令嬢たち31組62名が、できたてのコートの上で汗をかいた。決勝戦は、市統計局ペアと三菱のOLペアの戦いとなり、市統計局ペアが優勝したという。
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日本初の洋風公園とされる日比谷公園が開園したのは、1903年(明治36年)にさかのぼる。当時は、近代国家の首都にふさわしい都市を造るため、明治政府が力を入れていた時期だった。都市計画を専門とする、東洋大学理工学部建築学科准教授の大澤昭彦さんがこう語る。
「欧米列強から認められるようになるため、明治政府は軍備、教育、官僚制度、民間企業などに加え、都市の整備に注力します。ちょうど19世紀半ば以降、パリやウィーンあたりで都市改造が進んでいました。外務卿の井上馨を中心に都市改造計画が進められ、その一環で造られたのが日比谷公園だったのです。
明治以降、すでに公園は整備されつつありましたが、寛永寺が上野公園に、増上寺が芝公園になるなど、社寺仏閣の境内を転用したものが主でした。次第に、本格的な洋風公園の整備が必要だとする声が大きくなっていきます。そこで、もともと陸軍の練兵場として使用されていた場所に、白羽の矢が立ったのです」
「日本初の洋風公園」という言葉にかけられた期待は重かった。公園を整備した経験がある者も少なかったこともあり、東京駅や日本銀行を設計した建築界の重鎮・辰野金吾でも、設計案を出すのに苦労したという。
「なかなか設計案が決まらなかったのですが、最終的には林学者であった本多静六の案が中心になりました。設計に頭を悩ませていた辰野のもとを訪れた本多が、留学経験のあったドイツの公園事情について話をしたところ、辰野から設計を押しつけられたという逸話が残っています。
実際に本多の案はドイツの公園の影響を受けたものですが、公園の北東にある江戸城の石垣を残しながら、日本庭園などで見られるような心字池を置くなど、日本ならではの要素も取り入れたものでした」
開園後は、いまも残る洋風喫茶店「松本楼」や野外音楽堂、日比谷公会堂などが設置される。ゼロから造りあげられた日本初の近代都市公園は、見事に人々が集う場所となった。
「東側には劇場・映画館・ホテルが集まり、西側には官庁街である霞が関が隣接しています。丸の内や新橋のオフィス街も近く、潜在的な利用者が多い場所に立地していることも大きいのでしょう。日比谷公園は、いまもサラリーマンや買い物客、観光客など、さまざまな人たちが集まる場所となっています」
なお、日比谷公園を造るため、日比谷にあった練兵場は青山に移転し、後に代々木へ移っている。それぞれの練兵場跡地を見ると、日比谷練兵場は日比谷公園、青山練兵場は神宮外苑、代々木練兵場は代々木公園と、すべて公園に転用されている。意外にも、陸軍が押さえていた広大な土地があったからこそ、緑豊かな東京ができたのだ。