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魅力的なキャラも量産…単純な風刺画をマンガに育てた男/6月27日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.06.27 08:30 最終更新日:2021.06.27 08:45
1915年6月27日、東京・調布で、新聞社に所属する漫画家たちが集まって「第一回漫画祭り」と称した宴会が開かれた。
この宴会で日本初の漫画家グループとされる「東京漫画会」が発足、以降、定期的に漫画祭りや漫画展覧会が開催されるようになる。
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漫画祭り参加者の1人が、北沢楽天という人物だ。まだ現代のようなストーリー漫画が確立されていない明治時代から活躍し、「日本で初めての職業漫画家」と呼ばれるようになる。
その理由を、楽天の故郷・埼玉県さいたま市にある漫画会館担当者に聞いた。
「ちょうど明治の時代は、『ポンチ絵』と呼ばれる風刺画や浮世絵などが、世間に広まっていく頃でした。
江戸時代末期、イギリスの風刺漫画雑誌『パンチ』から派生した『ジャパン・パンチ』が横浜で創刊され、これが『ポンチ絵』の語源となりました。
幼い頃から絵を描くことが好きだった楽天は、洋画や日本画を一通り学んだのち、1895年に入社した横浜の英字新聞社『ボックス・オブ・キュリオス』で欧米漫画の技術を教え込まれます。
次第に同紙の漫画欄を担当するようになり、1899年には『時事新報』へ漫画記者として転職しました。
楽天は日曜版の『時事漫画』を担当するようになるのですが、これがかなりの人気を博しました。
当時の風刺画は世間からの評価が低かったのですが、楽天は表現を工夫し、大人から子供まで、誰が見ても楽しめるような絵や内容を描き続けたのです。
また、いたずら小僧の『茶目』やうっかり屋の『丁野抜作』など、しっかりとしたキャラクターを定期的に出し続けました。これは、有名どころでは楽天が最初ではないでしょうか。
楽天は、風刺画をいわゆる『漫画』へ発展させた人だと言えるでしょう」(漫画会館・担当者)
のちに時事新報を退社した楽天は、自宅を「三光漫画スタジオ」として開放し、後進を熱心に育てていった。
1948年には、先祖代々の土地だった埼玉県大宮市(現・さいたま市)に新しく「楽天居」を構え、日々好きな日本画を書いて暮らす悠々自適の生活を送った。
79歳のとき脳溢血で亡くなったが、大宮市の名誉市民第1号として名を残した。
写真・朝日新聞