'52年1月、当時の韓国大統領・李承晩が「このラインを韓国領にする」と一方的に宣言したのが李承晩ラインだ。その中に竹島も含まれていた。そのときの日本は米軍支配下にあり、主権回復の直前。韓国は、日本がまともに抗議できないことを見越したうえで竹島を奪ったのだ。
「翌’53年から日本漁船の徹底的な拿捕が始まりました。その数は、李承晩ラインが廃止される’65年までに233隻、計2791人に上っています。
当時の韓国は、日本との国交正常化交渉を有利にする外交カードとして、日本漁船を拿捕・抑留したのです。
要は日本の漁船員を人質にした『人質外交』で、北朝鮮の拉致となんら変わりありません」(拓殖大学国際学部・下條正男教授)
人質を取られた日本政府は、漁船員を早急に救出するため、条約交渉で大幅に譲歩する。それは、抑留生活が悲惨を極めたからだ。’53年2月に開かれた国会の小委員会で、帰国した漁船長がこう証言している。
「留置場は一部屋4畳半くらいで部屋の隅に便所があり、朝鮮人と一緒にぶち込まれた。多いときは一部屋10人、全部で80人位上もいて寝ることもできなかった。なかには苦しさのあまり、便所から逃げようとして、便所の中を泳いだ者もありました。食事は丸麦1合くらいを1日2食、おかずは大根の葉っぱの塩漬けを毎日毎日73日間も食わせられ、栄養失調になり20日くらい入院した人も……」
山口県萩市に越ヶ浜、玉江浦という2つの漁港が並んでいる。当時、いずれも人口2000人くらいだったが、2つの漁港から合わせて144人もの漁民が拿捕されている。そのころ越ヶ浜漁協の職員だった井町満さん(83)が証言する。
「当時の越ヶ浜の漁船は総数40隻くらい。そのうち15隻が拿捕されたんですから影響はたいへんなものでした。生死もわからんですし、借金で建造した漁船がどうなるかという心配もあった。結局、この港の漁船は1隻も戻ってきませんでした」
日本に残された家族の生活は、働き手を奪われ、とたんに困窮した。抑留中に計5人が死んだし、一家離散したケースもあったという。韓国による竹島の実効支配は、こうした国際法違反の積み重ねで進んでいったのだ。
(週刊FLASH 2012年9月4日号)