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ゼロ戦のエンジン、6割が東京の軍需工場で作られていた/7月6日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.07.06 06:00 最終更新日:2021.07.06 06:00
1939年7月6日、堀越二郎が設計したゼロ戦(零式艦上戦闘機)は、海軍で初の試験飛行をおこなった。この1年後には実戦に投入され、第2次世界大戦中に約1万機が製造されたという。
ゼロ戦を開発したのは、堀越が所属する三菱重工だった。海軍からは「他を少し犠牲にしてでも格闘性能がほしい」「格闘性能は搭乗員の腕で補う。航続力と敵を逃がさないレベルの速力がほしい」などと高い要求があったという。
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堀越を含め設計技師たちは「ないものねだりだ」と苦労しながらも、防御力と耐久性を犠牲にすることで機体の重量を軽くし、要望に応えた。圧倒的な運動性能とスピードを誇ったゼロ戦は、開戦当初から世界にその名を轟かせた。
ゼロ戦を製造したのは三菱重工だけではない。当時、戦闘機生産で三菱と並び立っていた中島飛行機も、ゼロ戦のエンジンをライセンス生産している。
試作機の段階では三菱製の「瑞星」というエンジンを搭載していたが、時を同じくして中島飛行機からより高性能な「栄発動機」が開発され、採用に至った。意外にも、ゼロ戦生産数の6割以上は中島飛行機が担っていたのだ。
それだけに、中島飛行機はアメリカ軍から執拗に狙われた。鉄道事情に詳しい、地形散歩ライターの内田宗治さんが、こう語る。
「中島飛行機は、東洋一とうたわれた航空機エンジンの大軍需工場を東京・武蔵野市に構えていました。この武蔵製作所は東京ドーム14個分の広さを持ち、現在の武蔵野中央公園から武蔵野市役所あたりまでの土地を占めてました。
戦時中には、ゼロ戦や一式戦闘機『隼』などの、数々のエンジンがここで製造されています。できあがった部品は、現在の武蔵境駅につながる軍用引込線を利用し、群馬の太田工場や小泉工場へ運ばれ、組み立てられました。
アメリカ軍は武蔵製作所を攻撃の最重要地点とし、本格的な本土空襲が始まった頃、一番はじめに空襲しています。その後も、戦争が終わるまで実に9回も空襲を受けました。毎回数百トン以上の爆弾があたり一面に投下され、のべ爆撃機数は500機を超えたそうです」
戦後、武蔵製作所の西側半分はGHQに接収され、東側は東京スタジアムグリーンパーク野球場として使用された。1951年の完成当初はプロ野球・国鉄スワローズの主催試合がおこなわれていたが、わずか1シーズンしか開催されず、5年後には解体されてしまった。
現在、引込線のあった場所はほとんどが緑道だ。ただ、玉川上水を通るぎんなん橋の下には、ゼロ戦を運んでいた頃からあるコンクリート橋台が一部残されている。