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美輪明宏も証言…長崎への原爆投下、空襲警報は鳴らなかった/8月9日の話

社会・政治 投稿日:2021.08.09 10:00FLASH編集部

美輪明宏も証言…長崎への原爆投下、空襲警報は鳴らなかった/8月9日の話

原爆で半分だけ吹き飛んだ鳥居

 

 8月9日は長崎に原爆が投下された日だ。今年で76年になる。
 1945年8月9日11時2分、長崎に原爆「ファットマン」が投下されると、市内の建物の約3分の1は焼けて壊れた。当時長崎市に住んでいた約24万人のうち、7万4000人もの人々が亡くなっている。

 

 

 歌手の美輪明宏さんは、この日を長崎市で迎えていた。当時10歳だった美輪さんは、自宅で夏休みの宿題をしている最中だったという。2010年8月6日号の『週刊金曜日』で、当時をこう振り返っている。

 

《11時過ぎでした。私は夏休みの絵の宿題を描いていました。描き上げて、机に立てかけ、出来映えを見ようと椅子から下りて、立ったとたんにピカッ! 空は真っ青だったので、「こんないい天気に雷?」と。そう思うか思わないかくらいで、次はドカーン! と地震みたいな衝撃が来た。目の前のガラスが一瞬で「ぴっ!」と飛んだんです。何が起きたのかわからない。

 

 で、その後に、物凄い爆音が聞こえたんです。B29が逃げていく音。敵もさるものでね。不意打ちをするためにエンジン止めてきてたんですよ。だから原爆の前には警戒警報も空襲警報も鳴らなかったんです》

 

 原爆が投下される直前、たしかに空襲警報は鳴らなかった。記録によれば、この日は朝の7時50分に空襲警報が出されたが、8時30分には解除されている。

 

 ただし、長崎に原爆が投下される直前の午前10時53分、原爆搭載機の動向を察知した日本軍が空襲警報を発令したという記録もある。防衛庁防衛研究所戦史室によってまとめられた『本土防空作戦』(朝雲新聞社)に、詳しい経緯が記されている。

 

《国東半島から北九州地区に向かうB-29二機が発見されたので、西部軍管区司令部は一〇五三(10時53分)空襲警報を発令した。広島に対する原子爆弾投下の状況から、このB-29も原爆搭載機であろうと判断された。敵機は八幡上空を旋回後、同地南西方に向かった。

 

 第十六方面軍司令部においては、敵機の攻撃目標を長崎と判断し、ラジオその他各種通信機関を利用して「B-29少数機、長崎方面に侵入しつつあり。全員退避せよ」と繰り返し連絡した。このとき、特殊爆弾投下の疑いがあるとは付け加えなかった》

 

 だが、結果的に空襲警報も退避命令もどちらも長崎の人々には届かず、逃げる間もなく原爆が襲った。

 

 行政側も、無策で待っていたわけではない。当時、長崎県知事だった永野若松氏は、広島原爆の話を聞き、無傷だった長崎にも原爆が投下される可能性が高いと判断し、会議を開いている。それが8月9日の朝だった。

 

《皆を知事室に集め、「それでは」と言いかけたところに、佐世保市長の小浦君が来て、室に入れたら、「広島はエライことになりましたね」という。「今、ちょうど、そのための会議を始めようとしたところだ」と言った途端に、電灯が消えた。壕の外に出て見た。遥か向こうの浦上方面一面が、真黒な煙に包まれ、赤い火の手はまだ見えなかったが、濛々(もうもう)として大火事となっており、ずっと高いところまで雲のような煙が立ちこめていたのである》(『長崎県警察史下巻』)

 

 県知事たちは爆心地から2.7kmほど離れた防空壕にいたため、電気が消える程度の被害ですんだ。救護や対応の指揮はこの防空壕で執られ、原爆による甚大な被害についても、中央に伝えられた。

 

 実際に長崎で空襲警報が鳴ったのは、原爆投下から7分後のことだった。なぜ警報が遅れたのか、その理由は定かではない。

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