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給食が作った日本のパン文化…アメリカの小麦が食生活を変えた/8月14日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.08.14 10:30 最終更新日:2021.08.14 10:30
1950年8月14日、文部省が、東京・大阪など8都市の小学校で、パンによる給食の実施を発表した。日本が戦後の貧しさにあえぐなか、ようやく給食に主食が登場するようになった。
明治時代から導入されていた給食制度は、第2次世界大戦が終わると、徐々に再開されていく。しかし、戦後の食糧難もあり、なかなか子供たちを満腹にさせることができない。アメリカから送られてきた脱脂粉乳に加え、おかず一品を提供するのが精一杯といった状況だった。
歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。
「戦後すぐの給食は主食の提供がむずかしく、生徒たちが家から持参することもざらにありました。1950年、アメリカからガリオア資金(占領地に与える援助)で小麦粉が送られたことで、パン、脱脂粉乳、副菜の完全給食を出せるようになったのです。
以来、日本の小麦輸入量は劇的に増えていきます。ただ、1951年の講和条約によって日本が独立したことで、ガリオア資金は中止され、いっとき給食は存続の危機に陥ります」
日本政府は、小麦への半額補助で、これまでどおり給食を提供していくと表明する。一方で保護者の負担も増え、学校給食の中止さえ議論されるようになった。
「1956年、アメリカの余剰農産物に対する日米協定が結ばれ、アメリカは日本に小麦10万トンと、学校給食用の小麦を定期的に送るようになります。日本は給食でアメリカ産の小麦を使ったパンを出し続け、子供たちの食事を確保しました。
実は、大戦後のアメリカには農作物が大量に余っていて、日本が新しい市場と目された面もあります。実際に、1976年まで給食の主食は基本パンのみで、コメは意識的に排除されました。1970年代、国が減反政策をおこなうほどコメが余ったことをきっかけに、ようやく給食にコメが登場するようになったのです」
パン食が当たり前になるにつれ、国内のコメの消費量はどんどん下がっていった。食料需給表によると、1962年度の118.3kgをピークに減少し、2019年度には53kgまで落ちている。
日本人の食文化が大きく変わった背景には、間違いなくアメリカの戦略が存在したのだ。
写真・朝日新聞