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日本初のCA、狭き門を通過した3人がわずか1カ月で全員退職/8月25日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.08.25 13:40 最終更新日:2021.08.25 13:40
1931年8月25日、日本最初の国営民間専用飛行場として、羽田飛行場(現・東京国際空港)がオープンした。記念すべき初フライトは、日本航空の中国・大連行の定期便で、乗客は6000匹の松虫と鈴虫だった。中国に住む人たちに、日本の風情を感じてもらおうと取り寄せたという。
1931年は、日本の航空史が大きく動いた年だった。
歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。
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「日本初の旅客機事故が起きたのも1931年です。民間の定期航空が1922年に開始され、旅客機が徐々に広まっていた時代。航路は順調に増えていきましたが、6月、日本航空輸送の旅客機が福岡の山中に墜落し、3人が死亡したのです」
旅客機が普及するなかで、航空会社は乗務員の募集に動き出した。同年はじめ、東京航空輸送による日本初の「エアガール」の募集広告が新聞に載った。世界初の客室乗務員がアメリカで飛行して、わずか10カ月後のことだ。
「エア・ガールを求む。東京、下田間の定期航空旅客水上機に搭乗し、風景の説明や珈琲のサービスをするもの、容姿端麗なる方を求む。希望の方は2月5日午後2時、芝桜田本郷町飛行館4階へ」
1次試験がおこなわれた翌日、新聞には「予選した10名の候補中 本山、和田両嬢はまず確実」などと、まるで選挙のような見出しが踊った。世間からの注目度はかなり高かったようだ。
「同年3月に発表された、日本初のエアガール採用試験の結果は、141人中、合格者はたった3人でした。いずれも高等女学校を卒業予定の女学生ばかりだったようです。
3月29日におこなわれた初フライトには、乗客第1号として、当時逓信大臣だった小泉又次郎(小泉純一郎元首相の祖父)と娘、秘書官たちが搭乗しました。翌日、新聞に掲載され、エアガールは大きな話題になりました。しかし、月給が16円ほどと安く、せっかく採用された3人は4月末で全員退職してしまいました」(濱田氏)
本格的なエア・ガールの採用が始まったのは、1936年頃からとされている。
写真・朝日新聞