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1964年の東京五輪「おもてなしの原点」は冷凍食品にあった!
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2017.01.29 17:00 最終更新日:2017.01.29 17:00
1964年の東京五輪で、最大の問題はインフラ整備と“食”だった。最大9000人の選手たちの胃袋を満たすため、全国から一流ホテルのシェフとコックが集められたが、膨大な量の食材をいかに調達し、調理したのか──難題を乗り越えた「おもてなしの精神」に学べ!
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《東京オリンピックの食堂の運営は目も回るような忙しさで、途方もない労力がかかり、気を遣う作業だった。富士食堂と桜食堂ではそれぞれ3000人が朝、昼、晩と3食食べる。(中略)ピークには1日に肉15トン、野菜6トン、卵2万9000個が胃袋に飲み込まれた》(村上信夫『帝国ホテル厨房物語』より)
選手村の最大収容人員は8868人。世界中から集まる若いアスリートたちの胃袋をいかにして満たすか──それが東京五輪の大きな課題だった。
五輪での選手村の給食は開催主と契約したケータリング業者が営利事業としておこなうのが一般的だ。しかし東京五輪では社団法人日本ホテル協会がそれを請け負い、材料費以外はほぼ無償で調理をおこなうことになった。五輪史上初めての試みだった。
東京五輪を4年後に控えた1960年、ホテル協会から選手村の責任者に任命されたのは帝国ホテル新館料理長の村上信夫だった。
村上はローマ五輪の給食態勢を視察するため現地に飛んだものの、ガードが固く厨房を見せてもらえない。そこで日本選手団が持っていた日本製カメラ12台と大量のフィルムを入手、それを選手村のシェフたちに配ることにした。
すると態度が一変、村上は笑顔で厨房に迎え入れられ、設備や食材の量、保存法などのデータを手に入れることができたという。
しかしなんといっても問題は大量の食材の確保と保存だった。試算では五輪期間中に必要な量は肉120トン、野菜365トン、魚46トン。これだけの食材を短期間に買い占めれば、市場価格が高騰し一般家庭にも大きな影響が出る。
■“食”を変えた冷凍食品とサプライセンター
村上ら日本を代表する一流ホテルから集結したシェフたちが頭を悩ませていたとき、日本冷蔵(現ニチレイ)の営業マンが売り込みにやってきた。
「冷凍食品なら問題を解決できます」
当時の冷凍食品に対する認識はよいものではなかった。戦時中に配給された粗悪品の「臭くてマズい」印象がまだ強烈に残っていたからだ。ホテルでも導入しているところはなかった。
しかし冷凍食品なしにこの問題をクリアすることは不可能だった。村上は部下やニチレイの技術者らと協力し、食材ごとに冷凍・解凍の実験を重ねた。このとき、戦後2年間シベリアに抑留された村上の経験が役に立ったという。
《凍った食べ物をおいしく食べるコツは解凍の仕方にある。(ジャガイモを)熱湯で煮ながら素早く解凍するとシャキシャキ感が残り、味もあまり落ちない》(前出著書より)
それ以外にも、各国の大使館を回ってそれぞれの国の料理のコツを学び、100以上のメニューを作成するなど、地道な準備作業が進められた。
本番まであと1年あまりという1963年8月、帝国ホテルで500人以上の関係者を招待し試食会が催された。この場で村上はある実験をおこなっていた。冷凍と生鮮の食材で同じ料理を作って並べたのだ。
宴が一段落したころ種明かしをすると、当時五輪担当大臣だった佐藤栄作が「村上君、どちらもおいしいよ」と声をかけた。これで冷凍食品の使用に目途が立った。
大量の料理を用意するため、冷凍食品とともに大いに役に立ったのがサプライセンター方式だ。食材を事前に大きさを揃えてカットし下ごしらえしておくことで、効率的な調理が可能になった。このシステムは後にセントラルキッチン方式となり、ファミリーレストランなどの外食産業の発展につながっていく。
東京五輪では新幹線や高速道路などインフラの整備が急速に進んだ。その一方では冷凍食品やセントラルキッチン方式という、現代日本の豊かな食を支えるシステムを格段に発展させてもいたのである。
(週刊FLASH 2013年11月26日号)