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24時間ビル警備はいつ普及したのか…日本に警報機を広めた永山則夫連続殺人事件
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.10.11 06:00 最終更新日:2021.10.11 06:00
1968年10月11日、当時19歳だった永山則夫が、東京のホテルで警備員を射殺した。日本を戦慄させた「永山則夫連続射殺事件」の始まりである。
ホテルから逃走した永山は、3日後には京都の神社で警備員を射殺。2つの事件で使用された弾丸が同じだったことから、警察は同一犯と判断するも、犯人の足取りはつかめない。そして、10月26日に函館、11月5日に名古屋で、同様の射殺事件が起きてしまう。
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歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。
「事態が動いたのは、最後の殺人から半年ほどたった翌年4月です。東京に戻っていた永山は、明治神宮の森に拳銃を埋めようとしますが、警備員に気づいて断念。夜になり、専門学校に忍び込んで金品を漁っていたところ、警報装置が作動するのです。
永山は、駆けつけた警備員に発砲しますが、弾は当たりませんでした。そのまま明治神宮に逃げ込みますが、明け方に逮捕。一連の射殺事件について自供し、事件は収束します」
このとき活躍した警報装置が、1962年、日本初の警備サービス会社として創業された日本警備保障(現・セコム)の製品「SPアラーム」だ。
創業当時、ガードマンという職業の認知度は低かったが、1964年の東京オリンピックを経て、永山事件で大きな注目を浴びるようになった。
セコムの創業者である飯田亮氏は、当時を振り返り、新聞の取材にこう語っている。
《犯人(永山則夫死刑囚)が、東京の専門学校に忍び込んだのをセンサーが感知して、出動した。遭遇して、ピストルを構えたところを、警棒でポンと打ったので狙いが狂ったのです。あれは危なかったですよ。僕はその社員に言いました。「君、危ないことはするな」と。これ、本心です。
そんなこともあって、SPアラームが急速に普及したのですが、発売から売れ初めまでに時間がかかったこともラッキーでした。
徐々に売れたから、レンタルの資金負担が軽く済みました。しかも、売れない間に初期のトラブルを解決し、システムの完成度を高めることができたのです》(『読売新聞』1997年2月3日)
当時、欧米に似たような警備システムはあったが、緊急で警備員がかけつけるのはセコムのオリジナルだったという。
事件以降、機械と人間の両輪で警備する考え方が世間に浸透した。現代ではありとあらゆる建物にセンサーが置かれ、24時間監視体制が敷かれている。警備システムが大きく普及するきっかけとなったのが、永山事件だった。