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真珠湾攻撃 奇襲成功に「艦内は万々歳、涙が止まらず…」記録厳禁の現地機動部隊で青年大尉が「戦中日誌」を遺していた!

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.12.08 06:00 最終更新日:2021.12.08 06:00

真珠湾攻撃 奇襲成功に「艦内は万々歳、涙が止まらず…」記録厳禁の現地機動部隊で青年大尉が「戦中日誌」を遺していた!

現在(左)と、呉海軍航空隊飛行中隊長時代(右)の原口さん

 

「決行ノ日(X日)ナリ 0030 第一号機射出発艦 全員彼方ヲ拝ム気持チアリ」「0130 第一次攻撃隊発進 空ノ英俊見事ナル編隊組ミ次カラ次ニ南下ス 勇シキ世紀ノ門出ナリ 空襲部隊ノ成功ヲ祈ル」「0155 第二号機発艦」「0245 第二次攻撃隊発進」

 

 

 真珠湾攻撃に参加した元海軍大尉・原口(旧姓・竹馬)静彦さんの1941年11月15日から始まる「戦中日誌」は、12月8日の日米開戦の瞬間をこのように記している。開戦80年の今年、100歳になった原口さんが、24日間にわたる日米攻防の “機密作戦” の詳細が記された「戦中日記」を初めて公開してくれたーー。

 

 原口さんの「戦中日誌」はこの後も赤城、加賀など6隻の航空母艦から出撃した航空部隊の真珠湾攻撃の様子をリアルタイムで詳報している。本来、攻撃作戦や経過などは重要機密であり、個人的に書き残すことなど厳禁だ。なぜ原口さんは、このような記録を書き残せたのか。

 

「当時、海軍少尉見習いだった私は、航海士として巡洋艦筑摩に乗艦し、古村啓蔵艦長付きでした。航海士の仕事とは、艦の位置を天測して航海図を作成することで、艦長付きとは、信号科から届いた電文を整理して艦長に届ける、あるいは艦長の命令を各部署に下達するというのが仕事でした。なので私は電文を日誌に書き残すことができたし、艦橋にいたので他艦の動きも望見できたんです」

 

 1921年11月21日、10人きょうだいの7番めに生まれた原口さんは、旧制松山中学から海軍兵学校へと進学した。

 

「私は海兵70期。同期には関行男がいました。彼は後に神風特攻隊第一号として散華しましたが、海兵時代はベッドが隣同士だったので、彼の寝相の悪さには閉口しました。よく足で蹴飛ばされたものですよ。また、彼は鎌倉に婚約者がいて、出撃のとき『俺はカアのために特攻に出る』と言い残したことを、海兵同期の戦友から聞きました」

 

 海兵卒業と同時に少尉候補生となり1941年11月、巡洋艦筑摩への乗艦を命じられる。これは同時に、真珠湾攻撃へ参加することでもあった。

 

「大分県の佐伯湾で訓練をおこなっていましたが、択捉島単冠湾に向かうことを知ったのは11月18日、土佐沖で艦長から告げられたときでした」

 

 このときのことを「戦中日誌」にこう綴っている。

 

「11月18日14時 粛々トシテ佐伯湾ヲ出港 第一ノ前進根拠地千島列島択捉島単冠湾ニ向フ 第八戦隊(利根・筑摩)ノ候補生一同戦隊司令官阿部弘毅少将ヨリ悲愴ナル訓辞ヲ載ク『サウデアッタカ』ト今更ノ如ク感ズ 余等ガ決死ノ先陣ヲ承ルコトヲ知リ欣喜雀躍 血湧キ肉躍ルヲ禁ジ得ズ」

 

 筑摩は11月22日13時、単冠湾に接岸。ほかの艦艇も続々と入港した。なぜ機動部隊が単冠湾に集結したかといえば、はるか北方にあったためその場所はほとんど知られておらず、夏は波が荒いが冬は静かで水域も広く、大艦隊の碇泊に適地であったため。

 

 接岸後、戦闘に不要ということで、机や椅子などを陸揚げして焼却した。さらに、乗員には防寒服が支給された。この段階では、まだハワイに向かうことは知らされておらず、原口さんは単純に冬は寒いからだと理解していた。

 

「私たちが真珠湾攻撃を知るのは4日後の11月26日、古村艦長から伝えられたからです。なので日誌にも、こう書いたんです。『コノ日単冠湾ヲ出撃スル 早朝ヨリ吹雪アリ 機動部隊ノ精兵堂々ノ発進 実ニ此レ最極マレリ 血湧キ肉躍ルヲ覚エ』とね」

 

 11月26日、空母赤城を旗艦とする機動部隊は単冠湾を離岸し、ハワイへと向かった。ところがこのとき、思わぬアクシデントが重なった。ひとつは、給油艦あけぼの丸の送油管が給油される艦艇のサイズに合わず、艦隊の随伴から外されたこと。2つめは、赤城のスクリューにワイヤーロープが絡まり、定刻より1時間遅れての出港になってしまったことだ。

 

 単冠湾からハワイまで約3000km。途中ソ連の商船2隻が、北太平洋を西進中との情報に接し、撃沈も辞せずとの緊張が全艦に走ったが、幸い交差することなく安堵する。

 

「もし交戦していれば、米国側にこのことが伝わり、これまで積み重ねてきたハワイ奇襲作戦は、すべて水泡に帰すところでした」

 

 12月2日、連合艦隊司令長官より「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の隠語電文が打電された。

 

「私もこの電文で、それまでX日とされていた開戦日が、12月8日に決定したのを知ったのです」

 

 12月7日、機動部隊はハワイ諸島に向けて一気に南下し、オアフ島まで約1136km地点に達していた。

 

「単冠湾からハワイまで長い日数と距離を航行してきましたが、船にも飛行機にもまったく出会わなかったのは奇跡としかいいようがありません。これで私は確信しましたね、天は我々に味方したって」

 

 実際そのとおりになった。12月8日、第一次攻撃隊183機が各母艦を発進。かくして真珠湾攻撃の火蓋が切られたのだ。

 

「私は艦橋にいたので発艦した戦闘機の様子を見ていましたが、隊形が分散型から密集型に変わり、空母群も間隔を縮めるなどの変化が見て取れました。戦闘機が空母の上空を旋回しながら編隊を組み、朝焼けの空を背景に飛び立つ様子は、あたかも一幅の絵を見るようで感動的でしたね」

 

「戦中日誌」も攻撃隊出撃の様子をこのように記している。「0155 第二号機発艦」「0245 第二次攻撃隊発進」「0300 筑摩ヨリ『敵ハ真珠湾ニアリ』」「0319 赤城ヨリ『全軍突撃セヨ』」「0322 赤城ヨリ『奇襲成功セリ』」

 

 真珠湾攻撃の全機収容が完了したのは9時30分ごろだった。奇襲作戦は見事に成功し、米国側艦艇19隻に損害を与え、日本側は飛行機29機を損失、64名の戦死者を出した。

 

「艦内は万々歳でしたが、後方にいた私は、負傷者や戦死した航空部隊への感謝と申し訳なさで涙が止まりませんでした。ただ、感傷に浸っていた時間はわずかでした。

 

 真珠湾攻撃後の16日、今度はウェーク島作戦を命じられ、内地帰還の本隊と別れて、筑摩はウェーク島に向かったからです。同島を3日間で占領し、あとは地上部隊にまかせて、24日にようやく内地に向かいホッとしたものです」

 

 原口さんはこの後、筑摩から戦艦武蔵に移り、さらに1943年1月に飛行学生となって訓練を受けた後、ゼロ戦パイロットに転身。本土防衛にあたり、終戦を迎えた。戦後は医師として、地域医療に貢献する。

 

「顧みれば、私と同期の38期飛行学生の138名のうち、22名が戦死しました。生き残った者たちも、戦後は苦労しながらもそれぞれの分野で日本の復興に尽力し、今日の平和国家を築き上げたと自負しています」

 

取材&文・岡村 青

 

( 週刊FLASH 2021年12月21日号 )

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