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【オリンピックと電通】元JOC参事・春日良一が語る巨大広告代理店の実態「もう物申せる人がいないのでは」
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2022.01.28 06:00 最終更新日:2022.01.28 06:00
北京冬季オリンピックの開幕まで2週間を切った。
日本でも2度開かれた「冬季オリンピック」だが、1998年の長野オリンピック招致で中心的な役割を果たした元JOC参事で五輪アナリストの春日良一氏(66)に、日本の “五輪ビジネス” と巨大広告代理店「電通」の知られざる関わりについて、秘話とともに初めて語ってもらったーー。
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昨年の「東京2020」では、開閉会式の統括責任者だった “電通出身” の佐々木宏クリエイティブディレクター(67)と作曲担当者の一人だったミュージシャンの小山田圭吾氏(52)が辞任し、ショーディレクターだった小林賢太郎氏(48)も直前に解任された。
さらに、演出振付家のMIKIKO氏(44)がIOCに提出し、絶賛された “幻の開会式案” を「週刊文春」が公開すると、莫大な税金が投入されたにもかかわらず、この案を実現できなかった東京2020大会組織委員会、そして電通への怒りの声がネット上でも多数あがることとなった。
「JOCの中からも、五輪開催の意義に燃え、そして五輪理念に基づいて電通に物申すことができる人がいなくなってしまったのでは。JOCはこれまでもオリンピック関連の広報やマーケティングなどを電通にほぼ丸投げしてきました。本来ならばそれらはJOC自身がやるべきだろうと私は考えて、JOC時代にはずいぶんやり合ったものです」
春日氏はそう語る。
電通が五輪ビジネスに大きく関わりはじめたのは、1980年のモスクワオリンピックだったという。電通がJOCに「五輪をもっと国内でPRしていきましょう」と言って、オリンピック選手強化のためのキャンペーンを提案してきたのだ。
これは選手の肖像権をJOCが一括して管理し、CMに選手を起用したいスポンサー企業はJOCに協賛金を支払うというシステムで、その協賛金が選手強化に役立てられることになる。のちに、「がんばれ!ニッポン!キャンペーン」として広く知られるようになったが、JOCとスポンサー企業を仲介するのは、もちろん電通だった。
「当時、JOC上層部にはアマチュアイズムの権化のような幹部がまだまだいました。特に表章委員長の鈴木良徳氏は “オリンピック博士” といわれ、オリンピックシンボル(五輪)の商業的利用には断固反対し、IOC会長にもガンガン文句を言っていました。
商業主義はまかりならんという猛者が当時のスポーツ界にはいましたね。その牙城を崩そうと電通の人間が日参して、『競技力向上のための手段として、もっとお金を稼ぎましょう』と話をする。『未来の選手のためになるんです』と言われると上層部も弱い。最後は言いくるめられちゃって、OKを出しました。
お金を個人のためではなく、『競技団体や将来の選手たちを育てるために、現役有名選手が作る』というのがその論理。それからは、幹部もすっかり電通をかわいがるようになってね。お金の話になると、まず電通に聞くということになり、何をやるにも電通ありきになっていきました」
資金面で苦労していたアマチュアスポーツ界にとって、電通によるオリンピック選手強化キャンペーンは頼もしいものだった。当時、スポーツ関連事業は大きな収益が見込める分野になりつつあったが半面、権利関係など非常に入り組んだ部分も多く、電通以外の広告代理店はなかなか手を出せなかったという。
それを背景に電通は五輪ビジネスを “独占” していくことになる。
「ただ、1991年にJOCが日本体育協会(現・日本スポーツ協会)から完全独立した際には、JOCは独自で財源を確保する方針であり、電通に頼らず進んでいける道を探ることも求められていました。
私も含めた若手職員から『電通だけではなく、ほかの広告代理店も入れていこう』と声が上がり、JOC内部の各委員会に博報堂や旭通信社(現・ADKホールディングス)など代理店の社員を派遣してもらうようにしたのです。
また、1991年に長野五輪招致が成功した後にも、『ジャパンオリンピックマーケティング』という会社を、JOCプロパーで五輪マーケティングをやるための組織として作ろうとしました。五輪ビジネスに興味を持っていた三菱商事を巻き込んでね。でも、結局は電通が猛烈に巻き返して、三菱商事と痛み分けの形で株主に入ってしまいました」
そして1993年、春日氏はJOC内で『企画広報部長代理』に昇格する。部長が空席のなか、38歳という若さでの異例の抜擢だった。
「報道対応から広報、マーケティングまでカバーする必要がありました。そのころには、電通は五輪ビジネスですでに確固とした実績を残しており、当然、電通と仕事をする場面は増えました。1994年のリレハンメルオリンピックを前にした時期です。
たとえば、日本選手団応援歌の制作です。それまでも、日本選手団応援ソングをJOCが独自に作るという画期的なことをやってはいたんですが、実態は電通まかせでした。しかし彼らにまかせると、ことごとく『有名アイドルを起用しよう』という話になってしまう。そうすれば、商業的には失敗しないからです。
私はそれをやめて、国民と一体になれる選手団応援ソングを作るべきではないかと考えて、そのコンセプトに基づいた楽曲制作を試みたんです」
自力でオーディションを開いてアーティストを選び、著名な音楽プロデューサーの力も借りて、応援歌は完成した。タイトルは『そして冬が来る日に』。アーティストは『Dual Dream』。電通以外の広告代理店の社員も委員会に加わったなかで、ゼロから作り上げた楽曲の完成に、企画委員会は新たな時代の可能性を感じていたという。
「ところが最終段階で、古参のJOC委員が『なんだこれは!』と騒ぎ立てて潰そうとしてきたのです。要するに、彼は事実上の一社独占状態だった電通とのっぴきならぬ関係があったものだから、気に食わなかったんですね。
私も上司を通じて、上層部には事前に根回ししてはいたんですが、彼が騒ぎはじめた途端、手のひらを返したように、『春日、お前何をやっているんだ!』と食ってかかってきた。それでも私はここで怯んでは改革に繋がらないと思い、『もう契約も交わしていますから』と、そのまま進めようとしました。
しかし、JOC内で私の革新的なやり方を快く思っていなかった一派が動いて私の懲戒解雇を訴えはじめたんです。そのあたりのことは当時、週刊誌でも報道されました」
“電通王国” に反旗を翻したばかりに、組織全体を敵に回す形になってしまった春日氏。騒動真っただ中のJOC内では、ほぼ孤立無援だったという。電通を中心に構築されていた五輪ビジネスにメスを入れるやり方が許される体制ではなかった。
「そんななか、私の味方になってくれた数少ない同志の一人が、当時の部下だった今の奥方(元水泳選手の長崎宏子氏)でした……(笑)」
そう言って照れ笑いしながらも、春日氏は応援歌を潰された無念さを口にする。
「『そして冬が来る日に』は、そうした確執があったために、リリース時に大々的なプロモーションもできず、商業的にはさっぱりでした。でも、CDは発売できたし、『いい曲だ』と専門家も含めてかなりの人々が評価してくれたことが私にとって慰めですし、小さな誇りではあります。
ジャケットにJOC公式ソングの証しである第2エンブレム(商業用のエンブレム)が入っているでしょう。これも私がプロデュースしました。五輪理念に賛同してくれたコシノジュンコさんにお願いしたものです。エンブレムは今でも活躍してJOCのためにお金を稼いでいるようです」
結局、春日氏はJOCを退職し、独立。その後の五輪ビジネスは電通の独壇場となる。今回の東京2020で批判の的となった電通に、JOCは何も言えないのだろうか。
「そんなことを言える人間は、もう一人もいないんじゃないかなあ。言うとすれば(JOCではなく)五輪組織委だろうけど、東京2020でも実態は政府、東京都、スポンサー、電通、JOCの寄せ集めでした。
開会式や閉会式が批判されたといっても、それは式典担当者で解決してくださいとなるでしょう。オリンピックを開催する意義に心から燃えて……という人はもういなくなってしまったかもしれません」
現在、札幌市と一部国会議員が中心になり、2030年冬季オリンピックの招致を目指して活動している。今年の元日には「年内に札幌内定の可能性」と “当確” 報道も流れた。その中心にいるのは、もちろん電通だ。
オリンピックの光と影を巧みに操ってきた巨大な “スポーツ商人”。今回、「札幌招致」にその明暗が見えるかーー。
かすがりょういち
1955年6月22日生まれ 長野県出身 1978年に日本体育協会(当時)に入り、1989年にJOCに移る。長野オリンピック招致を取りつけた後、1995年にJOCを退職。その後、独立し、スポーツコンサルタント、五輪アナリストとして活躍