■ニクソン・ドクトリンと沖縄の「受け皿」化
1972年5月15日の沖縄返還の日。交渉を通じて民意が反映されなかったこともあり、沖縄の恨みは、この日の地元紙の紙面に端的に表れました。
基地関係では、琉球新報が三面トップで「米軍に87基地を提供」の見出しを掲げ、「沖縄米軍の基地機能は復帰前とほぼ同様に維持されることとなった」と指摘。沖縄タイムスも中面で「機能拡大された沖縄基地」との解説記事を掲載し、夕刊一面では「問題残す基地存続」と、県内の怒りの声を紹介しています。
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では、沖縄の基地はその後どうなったのでしょうか。
沖縄県によると、復帰当時の沖縄の米軍基地の総面積は約280平方キロ。半世紀後の今日の最新データは、約180平方キロで、3割以上減っています。たしかに、歴代自民党政権は那覇市近郊など都市部の基地施設の返還を求め、米軍もそれに一定程度応じてきました。
ただ、その中身をみると、もともと日本側に提供されていたものや休眠施設が多く、どうも数値ほどの変化はないようです。
もう一つ、不思議なデータがあります。復帰当時の沖縄駐留の軍人・軍属・家族数は約4万2000人でした。この数字は復帰後も徐々に増えていましたが、米軍はここ数年、数値を発表しなくなりました。
沖縄県が実情を知ろうと手を尽くし、米国防総省系の資料などから2011年6月時点では4万7300人であることが明らかになりました。米軍発表の数値と単純比較できるかどうか分かりませんが、少なくとも施設面積が減少しているほど軍関係者数は減ってはいないのです。
付言すると、日本国内すべての米軍基地に占める沖縄の割合も、復帰当時の58.7%から70.3%に上がっています。これはどういう理由でしょうか。
ニクソンは1969年7月25日、グアムでの記者会見で「同盟国の自由または米国の安全が脅かされれば核の傘を提供するが、その他の侵略は基本的に各国の自衛の努力による」と述べました。1970年2月18日にも外交教書で同様の趣旨を公表しています。
これらはニクソン・ドクトリンと呼ばれ、安全保障分野での同盟諸国の自助努力を促し、米国が財政負担を軽減するための基本戦略となりました。
ニクソン・ドクトリンは、同時並行で進んでいた沖縄返還交渉や日本本土の基地再編にも大きな影響を与えています。本土では1968年、米原子力潜水艦ソード・フィッシュ号の放射能漏れ事故や、米軍機の九大構内墜落事故など米軍に絡む事件事故が相次ぎ、ベトナム反戦運動とも連動して反基地闘争が活発化しました。
ジョンソン大使は11月、反米気運が高まる日本の世論を分析し、「多くの人々が本土基地の削減を望んでいる」とした報告書を国務省に送っています。
一連の事故はニクソン・ドクトリンの前ですが、米側はいち早く本土基地の削減に着手しました。12月23日に開かれた第9回日米安全保障協議委員会では、本土の基地・施設の返還や移転を迅速に実行することで合意し、21施設の返還と50施設について統合整理を行うことが決まります。
米側には基地の返還や集約によって本土世論の鎮静化を図るだけでなく、沖縄返還交渉の中で主張した防衛上の「役割分担」を日本側に促す狙いがありました。
米上院外交委員会では、1969年1月から日本本土などの基地・施設の整理縮小を検討するサイミントン委員会が連日開かれていました。そして3月3日、スタンレイ・リーサー陸軍長官が陸軍省の声明を議会に提出します。
それは太平洋地域の陸軍の補給基地を沖縄に一元化し、本土の補給基地をほとんど閉鎖するという内容でした。これをきっかけにしたかのように、本土の基地・施設の整理統合計画は沖縄が「受け皿」となり、沖縄の基地群は返還を前に戦略的重要性を高めていくことになります。
米政府は3月6日に、在日米陸軍をほぼ全面撤退させる意向を日本側に伝えました。相前後して国務省は、国防予算が40億ドル削減されたことに伴い米国内と海外に展開する基地371箇所を閉鎖・統合縮小すると発表しています。欧州を重視する一方、直接侵略される危険性の低いアジアでの陸上施設を減らす趣旨でした。
■慌てた日本政府
あまりに急激な米国の戦略転換に驚いたのが日本政府でした。返還交渉を通じて米側から安全保障面での役割分担や防衛責任の拡大を求められ、佐藤栄作首相もそれに同意していたのですが、政府内の意識改革は進んでいませんでした。
1970年10月、渡米した岸信介はニクソンと会談し、ニクソン・ドクトリンへの理解を伝える一方で、米軍のアジアからの急激な撤退に懸念を表明しました。
11月17日、ゴードン・グラハム在日米軍司令官は中曽根康弘・防衛庁長官に対し、在日米軍の3分の1に当たる1万2000人の撤退を伝達しました。12月2日には日米の事務レベル協議で、三沢、横田両基地のファントム6飛行隊108機を韓国と沖縄の嘉手納基地に移駐する計画が伝えられています。日本政府は米軍が過度に撤退することがないよう申し入れましたが、米側は聞き置くとしただけでした。
この日本政府の慌てぶりは、米側にとって好都合でした。反基地闘争が盛んな本土の基地機能を、返還が決まった沖縄に移駐することについて日本側が異議を唱えにくくなったからです。
米側の急激な戦略転換は、日本政府、特に米軍依存体質が強い外務省、防衛庁幹部の「見捨てられ不安」を呼び覚ましました。そしてそれが、日米の妥協の産物として沖縄を本土基地機能の「収容先」とすることにつながっていきます。
ニクソン・ドクトリンに伴う米軍再編計画が当初からそうした対日戦略のもとに行われたわけではありませんが、結果的にそれが “ショック療法” となり、本土の人々からは見えない形で沖縄への負担増が進んでいきました。
そして、沖縄返還の日取りを決める72年1月の日米首脳会談と並行して行われた日米外相会談で、ある計画が日本側に伝達されます。
■返還前に本土から駆け込み移転
1972年1月11日の新聞各紙は、沖縄返還の日取りを同年5月15日に決め、“凱旋” した佐藤首相の帰国を一面トップで一斉に報じています。タラップで誇らしげに手を振る佐藤の写真。その脇には、返還問題とは直接関係のなさそうな奇妙な記事がありました。
「関東地区の米軍施設、横田に集中の方針」。佐藤と同行してロジャーズ国務長官と会談した外相の福田赳夫が帰国直後に公表した、「関東計画」と呼ばれる米軍再編計画でした。
「関東計画」は、日本側の意向が強く反映されたものでした。米公文書によると、1968年9月の日米安全保障高級事務レベル協議(SSC)で、外務省は「基地が政治的摩擦を生じさせている理由は、それが都市と工業地帯に集中していること」を挙げ、人々の視界からできるだけ外れる地域に置くことを提案しています。
その後の米国の基地再編計画はこの提案を重視し、全国に散らばる基地の集約と都市部の基地機能を、人口の少ない地域へ移管することが基本線となりました。「関東計画」はその一環でした。
この計画はその後日本側と調整され、1973年1月に立川、府中など都市部にあった7つの基地の返還が決まります。一方、その受け入れ先となる横田のスペースを確保するために、ファントム部隊の沖縄・嘉手納基地への移管が正式に決まりました。
この時期の基地機能の沖縄移管計画は、これだけではありません。米公文書や当時の新聞報道をまとめると、米国は1970年7月に韓国駐留の工兵隊を沖縄に統合することを決定。9月にはベトナムの海兵隊を順次沖縄に移管することを日本側に伝えています。
沖縄の海兵隊兵力は1967年の約1万人から、返還直前の1971年には約1万7000人に膨れ上がっています。さらに、厚木飛行場のヘリ混成部隊や板付飛行場の航空隊も普天間を中心とした沖縄の基地群に移されるなど、復帰直前の沖縄に駆け込み的な移管がなされています。
米側がこの時期に移管を急いだのは、日本政府との協議が必要な日米地位協定の適用前であることを意識したとみられます。
政府案に基づいて沖縄が返還されるには、返還協定案が国会で承認される必要がありました。実際の承認は1971年11月。基地縮小を求める沖縄民意の中で、基地縮小どころか沖縄の基地機能が強化されている実態が明らかになることは、佐藤政権にとって都合の悪いことです。
米軍による本土から沖縄への基地機能の移転について、日本政府は見て見ぬふりをしていたというのが実態ではないでしょうか。
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以上、河原仁志氏の新刊『沖縄50年の憂鬱 新検証・対米返還交渉』(光文社新書)をもとに再構成しました。ジャーナリストが新史料を交えて「いびつな日本」の原点を考察します。
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