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皇室への “不敬デマ” を日本国民はなぜ信じるのか…成城大学教授・森暢平氏と不敬発言研究家・高井ホアン氏が語る報道への姿勢

社会・政治 投稿日:2022.04.25 06:00FLASH編集部

皇室への “不敬デマ” を日本国民はなぜ信じるのか…成城大学教授・森暢平氏と不敬発言研究家・高井ホアン氏が語る報道への姿勢

良子女王に色覚特性が疑われ、噂はあらぬ方向へ飛び火した(1924年撮影、写真・朝日新聞)

 

 日本国民はなぜ「不敬デマ」を信じるのか……独自路線を歩む皇室ウオッチャーとして知られる成城大学教授・森暢平氏と、不敬発言研究家・高井ホアン氏が、その病巣に迫る!

 

 

森 眞子さんと結婚した小室圭さんは、2月にニューヨークで司法試験を受け、その結果が、4月15日(日本時間)に発表されました。今回も合格は果たせなかったのですが、案の定、日本の雑誌やSNSには、小室さんへのデマや悪口が溢れています。こうした誹謗中傷はどこからきて、日本社会の何を反映しているのか、考えたいと思っています。

 

 

 森氏(57)は、「毎日新聞」の皇室担当記者を務めたあとメディア研究者に転じ、昨年9月以降、皇室報道のあり方についてメディアで積極的に発言している。

 

高井 小室圭さんへの誹謗中傷には、皇族と結婚することへのやっかみや差別が含まれていますよね。それは、1920(大正9)年から翌年にかけての、政界を巻き込んだ「宮中某重大事件」とも通じるものです。およそ100年前から、皇族の結婚相手に対して “純血性” を求めたり、出自への差別はあったんですよね。

 

 対する高井ホアン氏(27)は、戦時期のトイレの落書き、酔っぱらいの放言、怪文書など半ば公然と表明された皇室批判を、特高警察の内部資料「特高月報」などから丹念に収集し、著書『戦前不敬発言大全』(パブリブ刊)にまとめている。

 

高井 宮中某重大事件は、裕仁皇太子(のちの昭和天皇)の妃に内定した久邇宮良子(くにのみや ながこ)さまの弟や従兄が健康診断を受けた際に、色覚特性が判明したことに端を発します。元老・山縣有朋が、良子さまにも遺伝している可能性があるとして婚約辞退を迫り、皇室と政界は婚約派と反対派に分かれ、水面下で争いを繰り広げることとなりました。

 

森 そのとき良子さまには、当時は「しきもう」と呼ばれた音からの連想で「色魔」という噂が広まったこともあるのです。デマというより、おもしろがって噂をわざと改変したのかもしれません。

 

高井 皇室ゴシップを眺めるとき、戦前の人々と現代の人々との間に、どれだけ皇室を見る視点の差があるのだろうかと思います。皇室の行事やパレードを眺めつつ、同時に皇族の恋愛を見世物として楽しむ、“不敬” な国民の一面は、今も昔も変わらないような気がします。

 

森 皇室の結婚は見世物であると同時に、人々のモデルでもありました。それが、私の著書『天皇家の恋愛』(中公新書)のひとつのモチーフです。明治中期以降、日本は社会を近代化させ、欧化政策のなか “一夫一婦” を家族の規範としていくことになります。そのモデルが、まさに皇室でした。しかし、一夫一婦規範が一般化するのと同時に、逆にその模範である皇室に対して性的な噂が発生するようになります。

 

高井 「大正天皇は女好きで側室がいた」という風評も根強くあります。

 

森 明治天皇には、たしかに側室がいましたが、大正天皇には、側室は確実にいませんでした。私は大正天皇に側室がいたという説が、風評にすぎないことを実証しましたが、これを今も信じる人は多いんです。高井さんの本には、皇室に関する性的な噂が多く収録されていますね。

 

高井 たしかに多いです。1941(昭和16)年5月、大阪府堺市の南海鉄道高野線の北野田駅のトイレには「産めよ増やせよ陛下のように。下手な鉄砲数うちゃ当たる」と書かれていました。“神聖な皇室” と、我々とそう変わらない人間としての姿を結びつけるものとして、恋愛やセックスが浮かびやすいのかもしれません。戦前、皇室批判は不敬罪に問われる危険がありました。それでも、天皇家に関する “不敬デマ” は後を絶ちませんでした。

 

森 皇室への誹謗中傷は、SNSが発達した現代的な問題ではなく、戦前からあったということです。

 

高井 もっともよく知られているのが、「大正天皇遠眼鏡事件」ですね。「大正天皇が、帝国議会開院式で、詔書をくるくる丸めて望遠鏡のように議員たちを眺められた」。さらに「その後、隣の議長をポカッと殴った」という、ほとんど冗談のようなバリエーションもあります。要は、大正天皇は暗愚だった、あるいは「お脳に問題があった」ことを揶揄するデマでした。

 

森 たしかに、大正天皇は晩年に認知症的な症状を示していたことは事実でしょう。しかし、青年期や壮年期には通常の社会生活を営んでいました。おっちょこちょいで、権威的な振舞いが苦手ではありましたが、暗愚というのは言いすぎです。一方で、メディアや権力に近い人間が「じつはね」と、こそこそ話をすることも多くありました。

 

高井 戦時中、金属経済研究所の所長だった常盤嘉一郎が、父親にこう語って検挙されています。
「(昭和天皇の弟)秩父宮は病気のため葉山で静養中といわれるが、実際は英国大使クレイギーの娘と不適切な関係があり、そのうえ日独伊の三国同盟には反対だった。それが皇族の長老・閑院宮載仁親王に知れて、葉山に押し込められた」

 

森 当時、秩父宮は葉山ではなく、御殿場で静養していたので一部は誤報ですが、英国大使と近かったということは真実に近い。常盤は鉄鋼業界の統合など、経済統制にもかかわった “当局寄り” の人物です。真実はたぶんこうだというのを私的空間で広めていたわけで、100%の偽情報とも言い切れません。

 

高井 ほかにも、事例はたくさんあります。「東洋経済新報」の九州支局長で、戦後はNHK理事や東宝取締役などを歴任した三宅晴輝という人物が、旅館の女性従業員に対し、「朝香宮は、東京あたりでは芸者も買えばなんでもするよ」などと口を滑らせ、懲役1年、執行猶予3年の判決を受けています。

 

森 この話は、かなり真実に近いと思われます。内大臣の木戸幸一の日記には、朝香宮が妻を亡くしたあと、芸者界の玄人筋と関係した話が出てきますし、同時期の『高松宮日記』にも、ある皇族が新橋の芸者に「胤(子孫)を宿し」たとの記述があって、これも朝香宮のことだと考えられます。

 

高井 メディアの人たちは、こうした情報をかなり知っていたけれど書けませんでした。だから、口コミで伝えていたわけですね。

 

( 週刊FLASH 2022年5月3日号 )

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