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「鎌倉殿」に敗れた平家の落武者たち…令和の時代も続く“敗者の掟”
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2022.05.22 15:15 最終更新日:2022.05.22 15:22
放映中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、源平合戦で勝利した “勝ち組” の源氏方を主役にストーリーが展開している。源氏に敗れた “負け組” の平家のその後の運命はどうなったのかも大いに気になるところだ。
「平家にあらざるは人にあらず」と平時忠が言い放つほど、平清盛が築き上げた平家一族の権勢は絶大だった。しかし、清盛死去からわずか4年たらずで、平家の栄耀栄華はまるで幻のごとく消え去り、滅亡してしまった。
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平家方の消息は、わずか8歳の安徳天皇が清盛の妻である時子の胸に抱かれて壇ノ浦の海に身を投げ、自害したのを最後に歴史上からプッツリと消え、ようとして知られない。
歴史は勝者によって作られるといわれるが、平家はまさにそのいい見本。歴史は “負け組” 平家のその後の消息を完全に抹殺している。
ところが、平家一族は、現在もなお連綿と生き続けているという。全国各地に伝わる平家の落人伝説がそうだ。そして、平家一族が平家一族であるために守らなければならない「掟」を現在も守りつづけているという。
「ここでは5月の端午の節句でも鯉のぼりを上げてはならない、にわとりや犬など大きな鳴き声のする動物は飼ってはいけないとの約束ごとを現在でも固く守りつづけているんです。なぜそうしているかといえば、私たちの祖先が源氏の追っ手から身を守るためでした」
平家落人民俗資料館館長の大類良子さんは、栃木県日光市湯西川に伝わる、平家落人にまつわる “秘話” をこのように語りはじめた。
「ここにやってきたのは平忠房といわれ、清盛公の孫にあたる人でした。彼は一族40~50名を従えて都から逃れ逃れて湯西川にやってきたんです。この地域の川から湯気が立ち上っているのを見つけて温泉が出ているのを知り、定住を決めたそうです。
鯉のぼりを上げるのを禁じたのは逃亡の途中。一族の女性が男の子を出産し、端午の節句に鯉のぼりを上げたところ、源氏の追っ手に発見され、再び逃亡する羽目になったというんです」
平家は一ノ谷、屋島、壇ノ浦と、最後に三たび敗れている。このほか、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いでも平家は源義仲(木曽義仲)に敗れている。敗れるたびに平家一族は各地に逃亡し、身を隠した。平家の落人と言われる場所が南は九州、北は青森県、岩手県などほぼ全国に分布しているのはこのためだ。
全国に分散する平家の落人たち。けれど彼らには、多くの点で共通した特徴や口伝、風習を持っている。
たとえば、落人たちが定住した地は四方を深く、高い山に囲まれ、“秘境” といわれるような場所に多く見られる。谷あいのわずかな平野部に肩を寄せ合い、ひっそりと暮らしている。木工品や狩猟をなりわいにしている。稲作はほとんどおこなってない。数個の姓で統一している――などだ。
「大類という姓も、じつは平家一族に連なるんです。なので私も平家一族の末裔にあたるんですが、ここにはほかに平家にゆかりのある姓がいくつかあります。
とくに伴という姓は平家の直属の子孫といわれているので、今でも代々、平家の落武者であることを口外してはならない、というのを家訓に身分を隠すことを守っているというんです」(前出・大類さん)
伴という文字を分解すると人偏に半となる。これをさらに組み替えるとやがて「平の人」と読むことができる。つまりこれは平家の身分を隠すための、ある種の暗号と理解できる。
「なにしろ源氏に追われる身。だから何もかも隠す以外、生き延びる方法はなかった。自分たちが平家一族の子孫であることを裏づける古文書や遺品が残っていないのはこのせいなんです。あえて遺跡といえば平家塚ぐらいですね」(同前)
大類さんに教えられた平家塚に向かった。平家塚といってもわずか1メートルほどの石塔。地元の人たちの口伝によると、源氏の追討の恐れから、自分たちが平家の落武者であることを隠すため刀や槍、甲冑類を土の中に埋め、数個の石を積み上げて目印にした。それが平家塚だというのだ。
武器を捨て、姓を変えて人里離れた山奥にかくれ住む。
宮崎県椎葉村の平家落人伝説もそうである。那須宗久は平家討伐でこの村にやってきた。だが村人たちにもうすっかり戦意がないのを知り、討伐を取りやめた宗久は、清盛の末孫と言われる鶴富姫と恋に落ち、男子をもうけた。
だが、やがて宗久に国元に戻れとの命令が下り、鶴富姫と別れなければならなかった。この悲話は今も椎葉村に伝えられ、那須姓も代々継承している。
「じつは平家も源氏方も和睦し、過去の遺恨は一切水に流して友好関係を結ぶとの約束を鎌倉方と交わしたんです。お互い許しあって仲よくしようということです」(同前)
1994年10月、全国平家会と源頼朝会が和議を結び、過去の恩讐を超えて源平両氏が平和共存を誓い合った。大類さんもこれでようやく祖先によい報告ができ、胸をなでおろしたという。
取材&文・岡村青
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