社会・政治
秀岳館高校・段原監督 前任校でも「暴力監督」で有名だった!元部員が告発する「砂利に正座」「相互チクリ推奨」
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2022.05.24 06:00 最終更新日:2022.05.24 06:00
「お前ら、ここに正座だ」
当時、20代だった段原一詞氏(49)がグラウンドの一角を指差した。部員たちがきれいに石拾いをしてあったはずのそこには、なぜか大量の小石がばら撒かれていたーー。
30代のコーチによる部員への暴行が4月に発覚した秀岳館高校(熊本県)。5月17日、コーチは懲戒免職となり、同部の監督だった段原氏は退職願を提出し、受理された。
「秀岳館は、全国的な知名度のある段原監督のおかげで、サッカー部だけで毎年100人近い生徒が集まります。授業料や雑費などで、年間約1億円もの収入になるのです。段原監督は校長よりも権力があるといわれ、段原監督自身の暴力によるパワハラが報じられた後も、学校側はすぐに段原監督を解任できなかったのです」(サッカーライター)
【関連記事:秀岳館高校、以前から指摘されていた“スポーツで名を売る”経営方針「甲子園で全員県外選手」「吹奏楽部が大会断念」】
5月5日の会見で、コーチによる暴力行為について「見たことがありませんでした」と語った段原氏。この発言を「絶対に嘘です」と憤るのは、1990年代後半、段原氏が指導者としてのキャリアをスタートさせた明徳義塾高校(高知県)のサッカー部員だったAさんだ。
「僕は段原さんが、グラウンドや寮で選手を蹴りつけている現場を何度も見ました。そして段原さんは、間接的な暴力でも部員をコントロールしてきたのです」(Aさん、以下同)
高知市から車で1時間はかかる明徳義塾のサッカーグラウンド。ここで、段原氏による冒頭の体罰があったという。
「『なんで小石があるんだろう』とみんなで話していたら、段原さんが『そこに正座しろ』と言うのです。脛に小石が食い込んで、耐えがたい痛さでした。1時間くらい放置された後、段原さんがやって来て、校則違反について一人ひとりに“自白”させたのです」
当時の明徳義塾のスポーツ科は午前中が授業で、13時から18時までが部活動だった。
「正座を終えたときには夕方で、30人くらいの部員は、痛みで動くことができませんでした。3時間以上、正座させられたのは確実です」
段原氏は、部員同士を相互に監視させ、密告を奨励していたという。生徒の自由を奪い支配下に置く、秀岳館での指導ぶりは、この前任校で培われていたものだった。
「段原さんは『お前は許可なく携帯電話を持っている』『お前は先週木曜日に麻雀をやったな?』とか、気持ち悪いくらい事細かに指摘してくるんです。部員からチクらせない限り、絶対にわからない情報でした。段原さんに嫌われると無視されたり、試合に出してもらえないので、みんな常にびくびくしていました」
段原氏は東海大学第五高校(現・東海大学付属福岡高校)から陸上自衛隊に入隊。全国自衛隊サッカー大会の優勝に貢献し、明徳義塾に招かれた。
「現在の段原さんのプロフィールでは1997年から『監督』としていますが、最初はコーチでした。段原さんが着任したときには、前年に赴任したばかりだったY監督と、ブラジル人コーチのNさんがいました」
N氏は1996年に明徳義塾に着任。ブラジルのプロクラブでプレーした後、同国でコーチ、スカウトの実績を積み、細やかな日本サッカーにも対応できる指導者だった。
「もとはNさんが練習メニューを組んでいたのですが、段原さんの着任後は、2人の練習メニューを一日交代でやることになり、僕たちはすごく混乱しました。そんなとき、急に『Nさんは辞めた』と発表されたのです。段原さんは当時、校長の運転手を務めて親しく、部員の間では『段原さんが校長に取り入って、Nさんの首を切らせた』といわれていました」
当時は海外からサッカーの指導者を招く高校は珍しく、N氏の指導を受けたいと、越境入学する部員も多かった。N氏が辞めたことで、10人近くの部員が退学したという。
「さらに段原さんの発案で、部員にアンケートを取ることになったのです。表向きは部員の意見を吸い上げることが目的でしたが、Y監督への不満を書かせ、評価を下げたかったことは明らかでした。Y監督を慕っていた僕がアンケートを出さずにいたら、段原さんから1カ月間無視されました」
そして、Y氏は部長に退き、段原氏が監督に就任した2000年、明徳義塾は全国高校サッカー選手権に初出場を果たす。3回戦で敗れるが、前回優勝の市立船橋高校(千葉県)にはPK戦で勝利を収めた。
「徹底的に走り込ませ、型にはめていくことで強くなったのは事実だと思います。コーチとしての段原さんは、やはり力量があったのでしょう。ですが、何かあれば即“連帯責任”として、部員に正座や空気椅子を科す毎日に、僕は恐怖しかありませんでした」
段原氏は2001年、突如として秀岳館に移籍した。
「高校サッカー界でのし上がりたいという出世欲があったはずです。ですが、あまりに急に辞めたので、“夜逃げ”だと陰口を叩く人もいました」
有力選手だったAさんは、段原氏から大学サッカー部を紹介されたが、部活引退を機にスパイクを脱いだ。
「サッカーがまったく楽しくなくなってしまい、段原さんの紹介でサッカーをすることは絶対にイヤだったからです」
明徳義塾に、当時の段原氏の違法な体罰、指導を問い合わせたが、「(段原氏は)ずいぶん前に退職されているので、お答えしかねる」と、質問状の受け取りも拒否した。
秀岳館には、段原氏の前任校での暴力的な指導を把握したうえで就任させたのかを問い合わせたが、期日までに回答はなかった。
段原氏を厚遇してきた高校サッカー界に、自浄力はないようだ。