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ヒグマに狙われた17歳の少女、腰から両脚まで喰い尽くされる…4年で5人が殺された【増毛連続人喰い熊事件】

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.11.04 06:00 最終更新日:2023.11.04 06:00

ヒグマに狙われた17歳の少女、腰から両脚まで喰い尽くされる…4年で5人が殺された【増毛連続人喰い熊事件】

北海道にのみ生息するヒグマ

 

 札幌の北、浜益から増毛に至る海岸線はきわめて険峻なため、積丹半島の雷電峠と並んで、北海道西部を代表する交通の難所といわれた。

 

 これを迂回するため、江戸時代に開削された増毛山道は、全長8里に渡る山道で、ヒグマや山賊が出没し、旅人の通行は困難をきわめ、同山道を通行する人は、以下にあるとおり、昭和に入っても稀であった。

 

 札幌医大の伊藤秀五郎教授が昭和5年10月号の雑誌『北の山』に発表した紀行文「雄冬山付近の山道と漁村風景」の中に次の一説がある。

 

 

《道はあっても人の往来は極めて少ない。雄冬と増毛から毎日一回、逓送人がこの駅舎で落ち合って、郵便物を交換して帰るという、昔ながらのしきたりを反復しているほかは、たまたま町に用足しに出た村人が立ち寄るくらいのものである。

 

 山路の夜に迫られて泊まることを余儀なくさせられた貧しい行商人か、落魄した旅芸人か、さもなくば私達のような気まぐれな旅行者が、時たま薄っぺらな手帳の旅客簿に某年某月と鉛筆の跡を残していくばかりである。》(髙橋明雄『るもい地方の歴史探訪ー近現代にひろう35話ー』、1991年)

 

 この増毛山道で、明治21年から24年の4年間に、おそらく5名を喰い殺し、ついに鬼鹿村で捕獲された、稀代の人喰い熊が存在した可能性がある。

 

 まずは事件の経過を見てみよう。

 

 発端は、以下の記事から知られる。

 

《脚夫の屍体発見 客年十一月十五日増毛郵便局脚夫の浜益よりの帰路、濃昼、増毛の両山道において吹雪に倒れたのか熊につかみ殺されたのか、行方知れずとなったが、連日の雪風で往来を絶ち、捜索するにも道がなく、ついにそのまま過ぎてしまったが、先頃雪解けに際し、増毛山道の三里ほど脇道において右脚夫の死骸を発見したが、その携帯した郵便物にはまったく損害がなかったという》(『北海道毎日新聞』明治21年6月3日)

 

 襲われた時期が、ヒグマの冬ごもり前、つまり餌の渉猟が活発となる11月であることから、ヒグマに襲われた可能性がきわめて高い。

 

 次の事件は、上記事件現場から20キロ北の、増毛山道を越えた箸別で発生した。

 

《六月二十三日、増毛村の天谷某の雇人が、ハシベツ川の上流およそ一里ばかりのところで、突然熊に出会い、咬み殺されてしまった。その翌二十四日、増毛警察署から巡査二名と猟夫五人が天谷方の雇人二十人程と熊退治に出かけ、首尾よく銃殺した。増毛郡役所で皮を剥ぐと、見物人が三、四百人もあったという》(『函館新聞』明治22年7月9日)

 

 上記事件については、別の記録でも垣間見ることができる。

 

 明治22年8月20日、この道(増毛山道)を通ったのがわが国解剖学の先駆者、小金井良精と喜美子(森鴎外の妹で随筆家)夫妻である。時化のため増毛から船の便がなくなり、やむなく陸行することになったもので、次のような心細い思いをしたようである。

 

《追々道幅せまくなり行きて、人のかいなの太さある笹の丈は、馬に乗りし頭埋むばかりなるが、道の左右にいや生い茂りぬ。その道とて、雨ふるたびに土を流したれば、深き溝のようになり、所々鋭き石突き出で、過ちて落ちなば、直ちに命亡ぶべし、そが上、道の所々に大なる石を掘り越し、また草の根掘り返したるを、馬追は指さして、これはみな熊のわざにて、石の下なる蟻を食い、また草の根を食むなり。さればこの道は険しきのみならず、熊の常に出るために、かように人少なきなり。十日ばかり先にも、一人命失いたりと語りぬ》(『るもい地方の歴史探訪』)

 

「10日ばかり先」とあるが、おそらく上記「天谷某の雇人」が喰い殺された事件を指していることは間違いない。

 

 箸別川は、地図で見るとわかるとおり、増毛山道の北にある。小金井夫妻は増毛で同事件の経緯を聞いてから、浜益に向けて山道を南下したのだろう。

 

 人喰い熊は、すでに増毛山道を北上し、通り抜けてしまっていた。もしも数カ月前であれば、夫妻も襲われていたかもしれない。

 

 ところで上記記事によれば、加害熊は翌日になって「首尾よく銃殺」されたことになっている。しかし、このヒグマは本命ではなかっただろう。なぜなら、翌年になって、増毛近郊の山中で、人喰い熊事件が、立て続けに2件も発生したからである。

 

《斎藤銀吾というものは去る十八日、青草を採ろうと妻テツを連れ、字ノプ沢山中というところへ差しかかると、向こうより大熊が現れ出でたので、銀吾はソレというより藪陰に隠れ、テツもいずれかへ隠れた様子だったが、程過ぎて、もはや熊もおらぬだろうと思うころ、出で見ると妻はおらず、そこあたりの森を尋ねても影さえないので、我が家へ立ち帰り、人夫数十名を雇って山中をくまなく捜索したが、さらに見えず、さては先刻隠れ遅れ、または熊の目にかかって害されてしまったと力なく、その趣を同地の警察へ届け出たので、同警察では狩人を率いて、去る十九日、同山中へ捜索かたがた熊狩りに赴いたという》(『函館新聞』明治23年5月23日)

 

《六月六日、増毛郡阿分村の婦女が四、五名連れだって、青菜摘みのため近傍の山に登ると、突然大熊が一匹現れたので、みな狼狽し藪陰に陰れたが、池田善五郎の雇女ヨテ(十七年)が熊に捕まってしまった。藪陰からこれを見ていた婦女等は声を限りに助け呼び、その声が阿分村に達し、漁夫等が鉈や鎌を携へて駈付けると、熊はいずれかへ逃げ去った後で、ヨテの死体は腰から両脚まで食い尽くされていた。直ちに帰村して警察署に届出て、警部等が猟夫四、五名を率いて現場を検視し、午後十時頃まで熊の捜索をしたという》(『函館新聞』明治23年6月18日)

 

 上記事件については、発生年に若干の記憶違いがあるものの、一緒に山に入った5人の女性の1人から事件の詳細を聞いたという地元古老が記録を残している。

 

《笹井 熊の話だけど、俺の母親の伯母さんになる「アキ」という人は、今生きていれば百何十歳になるが、昭和13年に82で亡くなった。子どもの時によくその人におんぶさって、いろいろな昔の話をしてもらっていたんだ。

 

 その人の話で、ここから700mくらい行った所に、アキさんが25歳の時というから、だいたい逆算すると明治15、6年ごろ、5人でワラビ採りに行ったとき、熊に襲われて「ヨデ」という18歳になる女の人が熊にとられた(殺された)と、そんな話を子供の頃聞いているんだ。

 

桂 若い女の人が熊に襲われたんだ。

 

笹井 何でも、一緒に行ったみんながいないもんだから、一人になり探していて熊に食われてしまったそうだ。

 

(中略)

 

笹井 その熊はそこで捕らえられないで、舎熊の方へ行って人を襲ったとかで、何でも官主さんだかが襲われたそうだが、その人はとられなかったらしいけれども……。》(『ましけむかし記録保存事業・第1号』増毛町教育委員会・元陣屋、笹井秀雄)

 

 2カ月足らずの間に、増毛村北部、阿分集落の後背の山で、婦女2人までもが喰い殺され、官主までもが襲われたことで、おそらく地元では大々的な熊狩りがおこなわれたことだろう。

 

 しかし、続報がないことから、おそらく加害熊は討ち取られなかったと思われる。ただ加害熊を追い出すことには成功したようだ。なぜなら、翌年になって、阿分集落からさらに30キロ北上した鬼鹿村で、新たな人喰い熊事件が起きたからである。

 

《高橋萬太郎(二十九年)は同じ国者の黒石町字野村、久遠與八と蕗とりに、去る十二日午后三時ころより鬼鹿より一里ばかりの沢に赴きしが、牡熊に出遭い逃げ道なくて哀れはかなくも高橋萬太郎は喰い殺されしを同行せし與八は生きたる心地なく久兵衛方に馳せ帰りありし次第を物語れば、さらば萬太郎の仇かの大熊を打ち取らんと四十余人の若者手に得物槍鉄砲なんぞを携えて押し出し遂に二ッ玉にて打ち殺し鬼鹿村の戸長役場に引きずり来たり巡査立ち会いの上、熊の腹を引き裂きしに、無残にも萬太郎の手と片腹半分ばかりはらわたとともにありしにぞ、久兵衛方にては、それにて懇ろに葬りしが、大熊は買い人つき売りしよし》(『北海道毎日新聞』明治24年6月17日)

 

 捕獲されたヒグマの腹から被害者の一部が出たことから、加害熊であることは疑いがない。増毛山道を北上してきた加害熊は、ついに悪運尽きて獲殺されたのであった。

 

 ここで筆者の仮説をもとに、一連の事件を順を追って整理してみよう。

 

 加害熊は開拓が進む石狩平野を逐われ、恐らくは手負いになって、増毛山地を北上するうちに、濃昼山道周辺で郵便脚夫に出くわした。これを襲って喰い殺すことで、彼の補食原理は「成人男性」が最上位に位置づけられた。

 

 そのために、次に彼が襲ったのも、箸別川で見つけた「天谷某の雇人」つまり成人男性であった。ヒグマが一度味をしめた嗜好をしつこく求めることは、専門家も指摘するところである。

 

 クマはさらに北上し、ついに増毛の阿分集落に達する。ここでも成人男性、つまり斎藤銀吾を襲おうとした。しかし、巧みに逃げられてしまい、代わりに襲ったのが、銀吾の妻テツであった。

 

 ここで彼の嗜好は「成人男性」から「成人女性」に変化した。そして次に狙われたのが、青物採取に山に入っていた、若い婦人ヨテであった。

 

 加害熊は、地元民の追撃をかわしながら、さらなる人肉の味を求めて舎熊集落に下り、人間の女を物色するが、目についたのは官主であった。その匂いで加害熊は再び成人男性の肉の味を思い出し、官主を襲ったが、目的を達することはできず、かえって熊狩りを誘発してしまう。彼は山奥深くに逼塞し、越冬した。

 

 そして翌年、猟師の追撃を避けて北上した鬼鹿村で、高橋萬太郎を襲い、片腹を喰い尽くしたところで、追っ手の捕獲するところとなった。

 

 もちろんこれは、筆者の仮説に過ぎない。しかし、一連の事件が、4年にわたって、一貫してひと筆書きに北上していること、そして最初の事件以外のすべての事件が、5月から7月、つまり北海道では春と呼んでもいい季節に発生していることなどから、同一個体によるものであった可能性がきわめて高い。

 

 もしそうだとするなら、この個体は、毎年春になると人肉を求めて徘徊し、手当たり次第に人を襲いながら増毛山道を北上し、5人を喰い殺し、1名を負傷させた、稀代の人喰い熊であったかもしれない。

 

中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

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