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没後30年「田中角栄」メディアに次々出てくる「最後の弟子」それぞれの関係は? おさらいしてみた
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.12.17 18:35 最終更新日:2023.12.17 18:35
12月16日で、田中角栄元首相の没後30年を迎えた。長らく表舞台に出てこなかった長女の田中真紀子氏も、ここ数日はマスコミに対応し「(亡くなったのは)30年前のことですが、昨日のことのように思い出します」と語っています。
また、角栄氏が日中国交正常化を成しとげた功績から、16日に新潟で開かれた「逝去30年を偲ぶ会及び中日関係シンポジウム」に招待された真紀子氏は、「(角栄氏は)侵略戦争のおわびをしなければならない。(中国では)切られるか撃たれるか、毒を盛られるかも」と、覚悟を持って交渉に臨んだことや「持って生まれた熱、使命感、決断と実行。それが田中角栄という人間だと私はみている」と思い出を語ったという。
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さまざまなメディアでも、角栄氏を振り返る特集が組まれているが、そのなかで頻繁に登場するのが「田中角栄、最後の弟子」という呼称。それを名乗る人物が、いかに多いか、驚かされる。
週刊ポスト(2023年12月22日号)には、自民党の石破茂元幹事長が登場。《私は自分を「田中角栄の最後の弟子」だと思っています。先生には多くのことを教わりましたが、今も肝に銘じているのは、「握った手の数、歩いた家の数しか票は出ない。余計なことは考えずにともかく歩け」という言葉です》と語っている。
「石破氏の父、二朗氏は、鳥取県知事を務めたあと参院議員になり、自治大臣になりました。角栄氏とは“盟友”とも呼ぶべき間柄で、二朗氏が亡くなったときは角栄氏が葬儀委員長を務めました。二朗氏の後継者に、三井銀行(当時)のサラリーマンだった茂氏を担いだのも角栄氏です。出馬前も当選後も、石破氏は東京・目白の田中邸に日参して、政治のイロハを学びました」(政治担当記者)
一方、角栄氏の地元紙である新潟日報は、12月16日の記事で、「最後の弟子」として自民党の二階俊博元幹事長を紹介し、思い出をインタビューしている。
「二階氏は、ロッキード事件で元首相に懲役4年の一審判決が下された1983年の衆院選に、田中派から立候補し、逆風のなか当選しました。その2年後の1985年に角栄氏は脳梗塞で倒れたため、二階氏は『俺は角さんの最後の弟子だ』を口癖にしています。幹事長時代は、幹事長室に角栄氏直筆の「総力結集」の書が掲げられていたエピソードは有名です」(同前)
さらに、自民党のなかには「中村喜四郎衆院議員が『最後の弟子』にあたるのではないでしょうか」という関係者もいる。
中村氏は、いまでこそ立憲民主党に所属しているが、日本大学卒業後、田中角栄事務所に入り、私設秘書となった。1976年、27歳の若さで衆院選に初当選し、その後、田中派分裂に伴い経世会(竹下派)に移り、40歳で初入閣(科学技術庁長官)、戦後生まれで初の閣僚となった。
しかし、1994年にゼネコン汚職事件にからみ逮捕、起訴され、実刑判決を受けて2003年に失職した。その後、2005年に無所属で立候補し、返り咲きをはたした。強固な選挙地盤づくりは、角栄氏の教えによるところが大きいといわれている。
「角栄最後の弟子」について、政治アナリストの伊藤惇夫氏に聞くと、小沢一郎衆院議員の名前があがった。
「角栄さんには、幼くして亡くした男の子がいました。その子と年齢が同じだったことから、小沢さんをかわいがり、後ろ盾になって政界の実力者へと育て上げました。みかん箱に乗った辻立ち(演説)、『まめができてもつぶれるまで歩け』の戸別訪問など、小沢さんは角栄さんの教えを実践しました。それが旧民主党の若い議員に受け継がれたんです」
これだけ「最後の弟子」が多いのは、功罪相半ばするものの、角栄氏がいかに慕われていたかの証明でもあるのだろう。
( SmartFLASH )