なぜブラック企業が生まれるのだろうか。
『労働法実務解説10 ブラック企業・セクハラ・パワハラ対策』(佐々木亮・新村響子著、旬報社)という書籍がある。著者の佐々木弁護士と新村弁護士は労働弁護士として活躍されている方で、私も信頼している友人だ。
この書籍の中で両弁護士は、「ブラック企業がなぜ生まれるのか」という項を論述されている。ここでは、そこであげられている理由のうち、次の2点を紹介したい。
・労働のルールに対する知識・意識の欠如
・近視眼的な経営とその模倣
「労働のルールに対する知識・意識の欠如」とは、労働者が労働法の知識をほとんど持っていないことを指す。だが、ここで指摘しておきたいのは、これは何も労働者に限ったものではなく、使用者側にもいえるということである。
私も労働者側の代理人として案件を担当する際、労働法のルールに関して全く知識の乏しい経営者と話をすることになる場合がある。そうした経営者から聞かされてきた言葉に、次のような言葉がある。
「うちには労働基準法は導入していない」
「彼はアルバイトでしょ。アルバイトに法律は関係ないからね」
「いきなり辞めると言ってきて、大迷惑なんだよ。これだけ迷惑かけておいて、給料日だから給料払えだって? ムシが良いにもほどがある!(怒鳴る)」
次に、「近視眼的な経営とその模倣」について考えてみよう。
前掲書の中で両弁護士は、現在、「後先を考えない短期的な利益さえあがればいい」という「むき出しの利益追求」が企業ではびこっているのと同時に、「利益追求に重きを過度に置いて、労基法が守ろうとしている価値を攻撃する言動を行う経営者が多い」ことを指摘している。
「むき出しの利益追求」のもとにある経営思想は、「利益至上主義」である。極論すれば、「利益」がすべてであり、労働者の命、健康、生活や権利といったものは後回しにされ、それらはやがて「どうでもいい」という考えに結びつくことになる。
これが極端に押し進められると、労働者は「人」ですらなくなる。
この、労働者を「人」として見なくなるという風潮は、1985年に制定された労働者派遣法を一つの転機として捉えられるのではないかと私は考えている。
「労働者派遣」は、A社の従業員がB社に派遣されてB社で働く形を取るものである。もちろん、派遣労働者はB社の社員ではない。したがって、B社の経営者にも従業員にも、派遣労働者に対しては同族意識が働かない。
派遣労働者はなぜB社に来ているのか――それは、名前のついた労働者が働きに来ているというよりは、B社が求める特定のスキルを発揮するため、である。
つまり、派遣労働者の彼ないし彼女は、「労働者」ではなく、「労働力」という「商品」という扱いになる。
だからB社は、求めているスキルを発揮していないと不満を感じれば、A社に対し、「スキルの高い人を寄越せ」と要求することになる。
このように、労働者派遣という働き方は、労働者を「人」たらしめず、自社の社員としての同族意識も持たせず、「商品」という位置づけを労働の現場に持ち込むようになった。
こうした労働力の提供のやり方は、工場労働の場合の構内請負のようなケースで例がなかったわけではないが、労働者派遣法の制定は、それまで暗黙のうちに行われていたことを合法化し、公然と行うことを認めたのだ。先ほど、私がここに転機があると述べたのは、こうした理由からである。
この1985年以降、バブル経済期とその破たんを経て、我が国は長期の不況期に突入していく。この結果、企業では人件費の削減のため、派遣に象徴される非正規雇用の活用が急速に進むようになる。
このことと軌を一にして、「労働者」が「商品」として扱われていく状況が広まっていったのである。
バブル経済の破たん以降に創業したり事業の拡大をしたりした企業は、多かれ少なかれ、この非正規雇用の活用と、それに伴う労働者を「人」扱いしない気風の中で成長を遂げている。
この中で、「利益至上主義」、あるいは「利益優先主義」が企業の経営原理として働いている事例が増殖したと推察される。こうして、多くの企業で「近視眼的な経営」がはびこるようになっていったのではないか。
もちろん、利益追求というのは企業にとって一番重要な目標である。しかし、近視眼的な経営が極端に進むと、企業は利益追求という企業の目標と併存する価値を有する、労働者の命、健康、生活といったものを軽んずるようになる。
その結果、企業は大切なものを見失い、タガを外していくのではないだろうか。
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以上、笹山尚人氏の新刊『ブラック職場 過ちはなぜ繰り返されるのか?』(光文社新書)から引用しました。数多くの労働事件を手がけてきた弁護士が、ブラック職場が生まれる背景に迫りながら、ホワイトな社会の実現に向けた解決策を示します。