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美空ひばりの興行を手がけ、山口組の名を天下に轟かせた男「田岡一雄」ほか伝説のヤクザたち【西日本の任侠列伝】
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2024.05.18 06:00 最終更新日:2024.05.18 06:00
8人で100人を圧倒した抗争劇、天下に名を轟かせた美空ひばりの興行、敵対組織にブルドーザー特攻――。暴対法や「トクリュウ」の進出と、ヤクザ激動の現代では想像が難しいが、かつて「任侠」を渡世とした男たちがいた。
3月に警察庁が発表した全国の暴力団員数(昨年末時点)は、構成員、準構成員を合わせ約2万400人で、前年比約2000人減、19年連続での減少となった。
一方で「半グレ・準暴力団」は全国で約4000人いるといわれ、さらに最近は闇バイトなどの犯罪集団「トクリュウ」(匿名・流動型犯罪グループ)による事件が多発している。2023年までの3年間で、検挙者数は1万人を超えた。関東在住の暴力団関係者は、この事態を憂いていた。
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「暴排条例などの締めつけの前は、ヤクザが地域を押さえていた。だが、今の裏社会は “無法地帯” だ……」
ヤクザについて多くの著書を持つ山平重樹氏の協力のもと、全国の「伝説の侠」たちを調査し、本稿は西日本編としてまとめた。昭和のヤクザたちからは、今では考えられないような豪快な生き様が垣間見えた。
「本来任侠には『強きを挫き弱きを助ける』精神がある。それがなくなったら、存在意義が失われてしまう。ヤクザの数が減ったいま、その精神が問われている」(同前)
時代が変わっても、 “伝説” は続くか。
●【兵庫】山口組を日本一の組織にした親分/田岡一雄(1913~1981年)
徳島の農家に生まれた田岡は、母親の死で神戸市に移転。偶然にも、同級生であった二代目山口組山口登組長の実弟と再会、山口組に入門する。戦後、33歳のときに三代目を継承した。組員はわずか33人だった。
田岡は賭博の収入に見切りをつけ、神戸港の港湾荷役業に進出。また、興行会社の神戸芸能社を立ち上げ、美空ひばりの興行を手がけるようになり、配下の組員にも「正業を持て」と指導していた。
一方で、山口組の全国への進攻作戦を進め、勢力を拡大し、山口組の名を天下に轟かせた。人心掌握術に長け、多くの大幹部を輩出した。
●【和歌山】浪曲・芝居の劇場を経営した博徒親分/三尾千代一(生没年不詳)
大正末期、博徒だった佐々木久吉が和歌山市に立ち上げたのが佐々木組だった。戦前、戦後にわたって組を担ったのが、二代目三尾千代一組長だ。
各地の賭場を歩いて侠名を上げる一方、和歌山市内で浪曲・芝居の興行のための劇場を経営した。劇場のオープンにあたって、当時の錚々たる親分衆から贈られた緞帳は、後々まで佐々木組の語り草になったという。
長年、一本独鈷を通した佐々木組だったが、1991年12月、五代目土橋晧二組長の代に山口組に加入。五代目山口組直系組織になるも、2008年の司忍六代目体制下、六代目西畑晴夫組長が引退し、組は解散に至った。
●【島根】「山陰のドン」/安達晴信(生年不詳~1991年)
安達が結成した安達組は、出雲市に本拠を置く独立組織だった。1961年には三代目山口組地道組に舎弟として加入、三代目山口組傘下組織になった。その後30年以上にわたり組長を務めた。1974年12月、三代目山口組直系組長となり、「山陰のドン」として君臨。1991年10月14日、肝臓病のためこの世を去った。
●【徳島】「四国のドン」/尾崎彰春(1930~2019年)
20歳のときの神戸での下宿屋は、三代目山口組田岡一雄組長の舎弟が所有していた。その縁で安原会に入り渡世入りした。後に安原会の副会長を務めたが、警察の「第一次頂上作戦」で、安原会会長がヤクザから引退、安原会を解散してしまった。
これを受け、安原会の解散反対派を集めて尾崎が結成したのが、徳島市に拠点を置く心腹会だった。結成1年後には三代目山口組の直参に昇格、尾崎は「四国のドン」と呼ばれ、名門といわれる組織を作り上げた。
●【愛媛】山口組最年少直参昇格のレコード保持者/矢嶋長次(1936~2019年)
博打打ちとして全国を放浪していた1955年、愛媛県に拠点を構える森川組初代の森川鹿次の目に適い、渡世入り。矢嶋組を結成する。1960年、三代目山口組田岡一雄組長から盃をもらい、直参に。24歳という山口組最年少直参昇格のレコード保持者である。田岡組長のボディガードを務める。
愛媛では、松山市進出をめぐり地元組織との市街戦を繰り返す武闘派ぶりを見せる一方、神戸芸能社で美空ひばりの四国公演責任者だったことから、1963年に森川が興した森川芸能社の責任者に就任した。
●【長崎】「水雷久」/宮崎久次郎 (生没年不詳)
昭和初期のヤクザは、子分を引き連れ戦地に赴いた。「水雷久」の呼び名で畏れられた、宮久一家の宮崎も同様だ。
日中戦争さなかの1937年11月発行の「文藝春秋」臨時増刊には、宮崎が子分数百人と中国・上海に赴き、敵弾のなか飛行場の建設にあたったと報じられている。飛行場が完成すると、艦隊司令部長官が宮崎を旗艦出雲に招いて、感謝の言葉を伝えたといい、ヤクザの美談として『誉れの飛行場』という浪曲になった。
●【熊本】「詩人親分」/坂田浩一郎 (生没年不詳)
もとは文学青年で、詩人志望が転じてテキヤに……という変わり種だ。地元・熊本から詩人仲間を頼って上京し、印刷所に勤めるが、職場が廃業。露店で古本市を開くが、そこを庭場とするテキヤ・會津家宗家四代目松葉武親分に挨拶したところ、會津家へ入門することになったという。
テキヤ界に身を投じてからも詩人性分は変わらず、日本詩人連盟、日本歌謡芸術協会の会員として数多くの作詞を手がけ、詩集『火の国の恋』などを発表した。
●【宮崎】県下最大のドンを襲ったネオン街に響く3発の銃声/井根敏雄(生年不詳~1983年)
1983年5月10日、宮崎市のネオン街に数発の銃声が響き渡り、当時の宮崎県下最大の独立ヤクザ組織のドンが襲撃された。
ヒットマンが放った銃弾の1発目はドンの心臓を寸分たがわず直撃したが、胸ポケットで止まったのは、48万円入りの分厚い革財布が銃弾を防いだからだった。だが、2~3発目が腹部を貫通し、その骨盤まで食い込み、命取りとなった。
射殺されたのは独立組織の井根一家(のちに解散)井根敏雄総長だった。波乱の生涯を閉じた井根敏雄は、若くして大所帯を率い、豪快な親分だったという。襲撃の背景には、実兄である井根組井根義秀組長との骨肉の争いがあったとされる。
●【鹿児島】「小桜モンロー主義」の始祖/神宮司文夫 (生没年不詳)
神宮寺は、鹿児島市に拠点を置く独立団体・小桜一家三代目総長。1969年、総長に就いた神宮司は、鹿児島県内を縄張とする一方、「県内に他組織の侵入を許さず、小桜一家も県外に進出しない」とする独自方針をとった。
鹿児島県警はこの主義を、ジェームズ・モンロー米大統領の政策にちなみ「小桜モンロー主義」と呼称している。この “主義” のもと、現在も県下で最大の勢力を保持する独立団体である。
取材・協力/山平重樹(やまだいらしげき)氏
1953年山形県出身 法政大学文学部卒業後、フリーライターとして活躍。『伝説のヤクザ』(竹書房)、『極私的ヤクザ伝』(徳間書店)などアウトローの評伝を多数執筆