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「女子生徒の服の下に手を」「“原爆頭”と呼ばれ殴られた」戸塚ヨットスクール元生徒が語る“地獄の日々”“復活への憤り”

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2024.09.23 15:45 最終更新日:2024.09.23 17:34

「女子生徒の服の下に手を」「“原爆頭”と呼ばれ殴られた」戸塚ヨットスクール元生徒が語る“地獄の日々”“復活への憤り”

1980年の戸塚宏氏。この翌年、山内さんは入校した(写真・共同通信)

 

「40年以上経ったいまも、いまだに海のなかで、もがく夢を見るんですよ。あそこはまさに“地獄”でした」

 

 と振り返るのは、現在、50代後半の山内さん(仮名)だ。

 

 かつて5人の若者が亡くなった「戸塚ヨットスクール事件」。創設者の戸塚宏氏は、8月8日にYouTubeチャンネル『令和ヨットスクール』を開設した。そこで戸塚氏は、体罰と暴力の違いなどについて持論を展開し、“体罰は善”と豪語しているのだ。

 

 

「当初は『オリンピックで通用するような一流のヨットマンを育てる』ためのスクールとして発足した戸塚ヨットスクールですが、次第に、戸塚氏の “スパルタ指導” が、非行や引きこもり児童の更生に効果があると評判になり、戸塚氏はメディアから『救世主』などと注目されるようになりました。しかし、生徒が暴行により次々と亡くなったことで事件化し、2002年に戸塚氏は懲役6年の実刑判決、当時、指導にあたっていたコーチもそれぞれ罪に問われました」(社会部記者)

 

 だが、動画での主張のとおり、戸塚氏は自身の教育方針をまったく反省していないーー。そこで重い口を開いたのが、冒頭の山内さんだ。

 

「令和の世に、戸塚の思想が絶対によみがえってはいけないと思いました。家族や親しい知人にしか入所した過去を話したことはありませんが、どうしても話さないといけないと思ったんです」(山内さん、以下同)

 

 山内さんが、愛知県美浜町に位置する戸塚ヨットスクールに入所したのは、1981年のこと。当時15歳、中学3年生だった。

 

「私は2人兄弟だったのですが、中学1年のときに、慕っていた兄が病気で急死してしまったんです。それがショックで、学校を休みがちになってしまったんです。小学生のころは、生徒会長を務めるほど活発な子どもだったんですけどね」

 

 そんなとき、中学校の担任が両親に勧めたのが、戸塚ヨットスクールだった。

 

「戸塚ヨットスクールから入校案内のチラシみたいなものが来ていたんです。私のことで悩んでいた担任が『こういう学校がありますよ』と持ちかけたのでしょう。入校案内には、スパルタであることや、体罰のことなどは書いておらず、自然のなかでヨットに親しみ云々と、それらしいことが書かれていました。まだ戸塚ヨットスクール自体がテレビなどで取り上げられておらず、私が入る2年前に、すでに13歳の少年が亡くなっていたことも明らかになる前のことです」

 

 費用は入校費が100万円。ほかに1カ月あたり30万円支払う必要があった。預ける期間は基本1カ月。

 

「何もわかっていないので、母親に連れられて入所しました。強引に連れ出される生徒がほとんどなので、『自分から来たのはお前が初めてだ』と、その場にいたコーチに言われましたね」

 

 当時の校舎は、海沿いにある2階建ての古い木造の公民館だった。

 

「生徒は15、16人でしたかね。女性も2、3人いました。年齢はいちばん下が中学1年くらいで、いちばん上が18歳くらいだったと思います。コーチは5、6人ぐらい。

 

 女性以外は、みんな入校初日に坊主にされるんですよ。どちらかというと、登校拒否という静かな子どもより、暴走族や家庭内暴力など“非行”を理由に預けられている子のほうが多かったです。聞いてみたら、『ゲームセンターにたむろしてたところを無理やり拉致された』なんて人もいましたね」

 

 ここから毎日、暴行を受ける地獄の日々が始まるわけだが、そもそも環境自体が劣悪なものだった。

 

「ほぼ監禁でしたね。夜になると施錠され、外には“番犬”まで用意されている。窓にも板が貼ってあるので、逃げられません。戸塚は自宅から通い、コーチと生徒が共同で生活するという感じです。2階にはコーチのための部屋と、生徒が雑魚寝するための広間がありました。生徒は寝袋で寝るのですが、まったく洗ってないので、とにかく臭い。お風呂はあったけど使わせてもらえず、ボートの練習が終わったら、ホースで水を浴びるだけ。週に2回だけ、近所の宿屋のお風呂を借りることができました。

 

 食事も、料理なんて呼べるようなものはでません。白米と、具のない味噌汁に、漬物。たまにヨットのスポンサーから支給される缶詰ぐらいです。それで月30万円取ってたわけですからね」

 

 起床時刻は朝6時。そこから肉体的、精神的な“暴力”が始まる。

 

「体操の時間と称して、1時間以上にわたりシゴキが始まります。そこでひたすら殴られるんですよ。理由はまったくありません。突然、拳で頭を何度も殴られて、倒されます。そのまま伏せていると、今度は『怠けるな!』と怒鳴られ、蹴られる。あわてて立ち上がると、再び『逆らうな!』と殴られる……その繰り返しです。いちばん生徒を殴ったのは戸塚ですが、コーチにもよく殴られました。さらに許せなかったのが、被爆地の出身だからという理由で『原爆』というあだ名で呼ばれたことです。殴られながら『原爆頭やから人よりも丈夫やろう?』と言われたこともあります」

 

 いまでも、当時の怪我のせいで後遺症が残っている。

 

「ひとつは、あるコーチに丼で思いっきり頭を殴られたこと。洗い物に、洗剤の泡が残っていたという理由ですね。額の横を殴られて、頭や顔の形が変わるほど腫れ上がり、頭蓋骨にヒビが入りました。いまでも傷が残っています。それから、同じコーチに鉄筋で左ヒジを何度も殴られたこともあります。このせいで靭帯が傷ついてしまい、いまでも左ヒジは痛みます」

 

“体操”を終えた後に待っているのは、ボート上での“殺人未遂”だ。

 

「戸塚に、ヨットに乗せられて沖まで連れていかれました。通常、ヨットの練習をするときはウエットスーツを着て、その上に救命ベストを着るのですが、その場で救命ベストを脱がされ、いきなり海に蹴落とされたんです。そしてそのまま、戸塚は宿舎に戻っていきました。ウエットスーツを着てるとはいえ、サイズが合わないので、水が入ってきて、身動きが取れない。岸に戻ろうにも戻れず、あきらめて海に浮かんでたんです。1時間ほど経って、なかばあきらめていたら、たまたま漁師さんの漁船かボートが通りかかって、引っ張り上げてくれたので、九死に一生を得ました」

 

 ボートそのものを“凶器”として扱うこともあった。

 

「台風の日もヨットの練習をするんですよ。戸塚ヨットスクールのヨットは、わざと転覆しやすいように重心を軽くしたもの。台風の日は波も風も強いので、何度も倒れるんですよ。すると、『何モタモタしてんだよ!』と怒鳴られる。そして、やっとボートを立てられたと思ったら、ボートに乗った戸塚が後ろから全速力でやってきて、私の腰に船首をバーンとぶつけてきたんです。それ以来、腰がヘルニアになってしまいました。そんなことが続くうちに、『ここにいたら殺される』って考えになっていきましたね」

 

 戸塚ヨットスクールでは、山内さんだけが“標的”にされたわけではない。多くの生徒が殴られ続け、女子生徒や一部の生徒は“性被害”まで受けていた。

 

「生徒たちが寝静まる時間に、一部の女子生徒だけが『マッサージをしに来い』とコーチの部屋に呼ばれるんですよ。私は見つかったらまずいと思いつつ、1度だけこっそり覗いてみたことがあるんです。そしたら、そのコーチが高校生ぐらいの女性訓練生の服のなかに手を入れてるのが見えたんです。明らかに、コーチがマッサージを受けているという状況じゃなかったです。

 

 それから、当時は生徒の中に、気弱な男の子が2人いました。その2人は、性的ないじめのターゲットにされていたんです。夜の自由時間になると、あるコーチと70歳ぐらいのスクールの支援者が僕らの部屋にやってくる。そしてその2人のコを追いかけ回して、みんなの見てる前で、下半身を露出させて、笑いながら陰部を触り続けるんですよ。2人はすごく泣きわめいて、かわいそうでしたね。みんなは目を背けていましたが、戸塚は笑ってみていました。たんなる悪ふざけというレベルを超えたものでした……」

 

 予定されていた入所期間は1カ月ーー。だが、当時の山内さんにとっては無限とも思えるような長さだった。

 

「私が入ったのは6月ごろでした。1カ月で出られると思っていたら、入所してすぐに戸塚から『夏休みになるからもう1カ月ここにいろ。親には言っておく』と言われたんですね。絶望しました。本気で殺されると思い、脱走計画を立てたんです」

 

 山内さんが入所して2週間が経ったころから、本格的な計画を立て始めた。

 

「まず一度、手始めに脱走しました。子どもでしたから、どこにどうやって逃げればいいかわからない。なので、周辺の地理を把握するために脱走したんです。トイレに行くふりをして、トイレの窓から逃げました。トイレの窓には、外側から板が張ってありましたが、板の間に少し隙間がありました。そこに無理やり体を突っ込んで、脱出したんです。番犬は事前に飼いならして、なんとか吠えないようにしました」

 

 駅の位置を確認した山内さんは、スクールに戻った。現場ではスタッフ総出で捜索がおこなわれていた。

 

「一度、脱走してからというもの、さらにシゴキがきつくなって。結局、さらにその2週間後に本格的な脱走をおこないました。朝4時に起きて、みんなが寝ている間にこっそり出たのです。所持金は1000円だけでした。最寄りの駅は、普段から『駅員に話してあるから、日焼けした坊主頭の子どもが乗ろうとしたらこっちに通報が来るようになっている』と脅されていました。なので、目立たない道を使って2時間歩き、4駅先の無人駅を利用しました。それで名古屋駅まで逃げたんです。電話で、遠く離れた実家にいる両親に『殺される! 迎えに来てくれ!』と。ただならぬ気配を察したのか、当日の夕方にはやってきてくれました」

 

 じつは山内さんは、ジャーナリスト・上之郷利昭氏の著書『スパルタの海 甦る子供たち』にも登場している。同作は後に伊東四朗主演で映画化され、戸塚側の主張を丸呑みにした“礼賛本”として知られている。

 

 当然、同書のなかで山内さんのことは“自転車を盗んで脱走した悪童”と扱われており、両親は最後まで戸塚を信じることができなかった“駄目な親”として描かれている。

 

「父が迎えに来てくれるまでは、私も半信半疑でした。親がスクールに連絡を取り、戸塚が確保しに来るのではないかとか……。でも、父と母の2人が待ち合わせ場所に現れたんですよ。そこで私は、頭や腕に残る体中の怪我を見せました。厳格だった父も、すぐに“異常さ”に気がついてくれました」

 

 山内さんの父が戸塚氏に息子を引き取ると連絡したところ、戸塚氏はどうしても話し合いがしたいと言って聞かず、名古屋駅までやってきた。

 

「名古屋駅まで戸塚たちが車で来ましたよ。5、6人で現れて、私は3人ぐらいに駅の地べたに取り押さえられたんですよ。父と戸塚は、私から少し離れたところで、立ち話を1、2時間してたと思うんですけど、父は『どうしても連れて帰る』と。戸塚は『もう少し預からせてほしい』と、譲らないわけですよ。私は、いま連れ戻されたら今度こそ殺されると思っていたので、必死でした。あのとき、父が頑として連れて帰ってくれたおかげで、生き延びました」

 

 山内さんはその後、学校生活に復帰し、大学を卒業後、結婚。子どもを授かり、まじめに会社に勤めている。

 

「はっきり言いたいのは、戸塚ヨットスクールは“更生”には何の意味もないということです。むしろ当時の私を支えてくれたのは、休みがちでも毎朝『学校行こうぜ』と誘ってくれる友達でした。戸塚の“教育という名の暴力”で生まれたのは肉体的、精神的な後遺症だけです」

 

 元訓練生の決意の告発に、戸塚氏はなんと答えるのか。戸塚氏がおこなった一連の暴行と、スクール内での性加害について質問を送ったところ、代理人弁護士から「事実上及び法律上の前提を全く異にするものであるため、以下の理由により回答することを拒絶する」という返答があった。

 

 代理人弁護士による「拒絶の理由」はA4で4ページにわたり、“独特な持論”を述べる内容だった。

 

 まず、現在、戸塚ヨットスクールは現在は安全に配慮した幼児向けのボート・トレーニングを実施していると主張。さらに、過去の刑事事件については「再審を検討中」であり、戸塚ヨットスクールが約1000人の子どもを社会生活に復帰させるという「絶大なる成果」をあげたことは、「全く実績が挙げられない教育界としては、虚名を維持するためにはどうしても葬り去らなければならない事実」であったため、国策捜査によって事件化されたと主張したのだ。

 

 そのうえで同弁護士は、「進歩を目的とする有形力の行使である体罰と、その目的を持たない単なる暴行とを完全に同視する見解は、法の論理に悖るものであつて極めて非科学的」であると断じた。

 

 なお、性加害に関して言及はなかった。山内さんは最後に、力を込めてこう語る。

 

「彼らは、道を外れた人を更生させるといいますが、いちばん道を踏み外しているのは彼らなんですよ。戸塚もコーチ連中も、あの異常な場所でしか生きることのできない人たちなんです。私は、決して彼らを許すことができないですし、体罰を美化する考え方は、絶対によみがえってはいけません」

( SmartFLASH )

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