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失踪から46年「園田トシ子さん」は北朝鮮に拉致されていた
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2017.12.26 06:00 最終更新日:2017.12.26 08:14
「ある脱北者から、『咸鏡北道セッピョル郡河面に、日本人女性が住んでいる。彼女は北朝鮮に拉致されて北にやってきた』という証言を聞いたのは、2004年6月のことでした」(ジャーナリスト・太刀川正樹氏)
今から46年前の1971年12月30日、園田一さん(当時53)、トシ子さん(当時42)夫妻は、帰省する次女を迎えに行くため、鹿児島県大崎町の自宅を出て、宮崎空港に向かった。夫妻はそのまま帰らなかった。正月飾りの準備もすみ、冷蔵庫にはご馳走用の肉や魚がいっぱいだった。園田家は、家族水入らずの正月を迎えるはずだった。
太刀川氏と本誌は、トシ子さんの長女である前山利恵子さん(70)を訪ねた。当時24歳だった。住んでいた神戸で両親の失踪を知ったという。
「次女から『飛行機が飛ばないから帰れない』と私に電話があったんです。両親も、空港へ行けばわかるはずだから、その日は家に帰ったと思っていました。帰っていないとわかったのは31日の夜になってからです。交通事故に遭ったと思いました」(利恵子さん)
子供たちと近所の人が総出で捜し回ったが、夫婦が乗ったマツダ・ファミリアは、ついに発見されなかった。
「『借金があった』とか『夜逃げした』とか、いろんなことを言われ、ずいぶん泣いたものです。でも、両親は成人式を迎える三女の晴れ着を買うのを楽しみにしていましたし、家には中3の15歳の弟もいました。かわいがっていた弟を1人置いて出て行く父と母ではありません。いなくなる理由は、何ひとつなかったのです」(利恵子さん)
利恵子さんが、両親が失踪する直前に近くの海岸で、ある事件があったことを知ったのは、拉致被害者が帰国した2002年以降のことだった。
「1971年に、ゴムボートに乗った不審な人物が目撃されて、朝鮮総連の幹部2人が逮捕された事件があったんです。両親がいなくなったのは、その2カ月後。あのときもっと捜査してくれていたら、両親がいなくなることもなかったかもしれません」(利恵子さん)
2004年に証言を得た太刀川氏は、冒頭の女性について、複数の脱北者への取材を進めていった。
「彼らの証言を得ていくうちに、トシ子さんの身の上と共通するものが次々と飛び出してきたのです」(太刀川氏)
<北朝鮮で生まれた子供の1人は『ピンナリ』というあだ名。理由は日本の親戚に『ピ』(光)の字がついている人がいるから>
利恵子さんの夫は「光秋」という名だ。
<缶ビールを懐かしそうに飲んでいた>
トシ子さんと光秋さんは、頻繁にビールで晩酌をしていたという。
<よくあんこ餅を作っていた>
という証言もあった。利恵子さんは、「母がよく作っていた」と話す。さらには……。
<トシ子さんの北朝鮮での名はイ・スンオク。清津港に連行され、思想教育を受けた。そこで知り合った工作員と結婚し、男の子が2人生まれた>
<河面にある長屋式住宅(労働者向けの住宅)に住んでいた。夫の死後、経済的には苦労していたようだ。夫の連れ子の娘と暮らし、夏に集めた人糞を売り、生活の足しにしていた>
北朝鮮に翻弄されたトシ子さんの半生が窺える。彼女は2008年ごろに、中国国境に近い町に住んでいたという。
「これらの情報から、イ・スンオクが園田トシ子さんである可能性は90%以上です」と太刀川氏は確信している。
長い取材のなかで、太刀川氏が入手したのが、2013年に北朝鮮で撮影されたという写真だ。この女性が園田トシ子さんだとすると、当時84歳である。
本誌は、この写真と、失踪前に自宅前で撮影されたトシ子さんの写真が同一人物かどうか鑑定を依頼。分析したのは、画像解析の第一人者である柳田研究所の柳田宗徳氏である。顔の部位の長さや角度などから判定した。
「両写真の人物は『同一人物』である可能性が非常に高いといえる」(柳田氏)
トシ子さんが北朝鮮に拉致されていた可能性が高いことを裏づける写真なのだ。結果を利恵子さんに伝えた。
「鳥肌が立つ感じです。鑑定どおりなら、母は向こう(北朝鮮)にいるということなんですね。父と母がいなくなったのが、12月30日。このまま年を越したくないという気持ちを、毎年味わってきましたが、今年こそは『何か』が起こってほしいですね」
1日も早い救出が待たれる。
(週刊FLASH 2017年12月12日号)