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【阪神・淡路大震災から30年】一面の焼け野原、積み上げられた棺桶…本誌記者が目の当たりにした“惨状”

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記事投稿日:2025.01.17 19:17 最終更新日:2025.01.17 19:17
出典元: SmartFLASH
著者: 『FLASH』編集部
【阪神・淡路大震災から30年】一面の焼け野原、積み上げられた棺桶…本誌記者が目の当たりにした“惨状”

発災当時の、西宮市仁川地区の土砂崩れ現場

 

「神戸の地震はかなりの規模の被害が出ている。午前中で死者が500人を超えた。たいへんなことになっている」

 

 その一報で、1995年1月17日、早朝から報じられる地震のニュースを確認し、本誌記者は東京からワゴン車で現場へ急行した。車には、取材した人に渡すペットボトルの水を数十本用意し、取材に当たった。

 

 運転することおよそ8時間、大阪から神戸に向かう道路は、すでに大渋滞していた。

 

 

 向かった先は、西宮市の市民体育館。体育館には1500人もの人が避難してきており、体育館の床が見えないほどだった。隣の武道場には、200体あまりの遺体が運び込まれていた。ビニール袋に入れられ、毛布をかけられて横たわっている遺体を、1体ずつ確認する人が絶えない。外には棺桶が積み上げられ、身元が確認された遺体から順に、棺桶に入れられていた。まさに惨状だった。

 

 火災が広がったのは神戸市長田区。一面、焼け野原になった住宅街で、消防署員らが、生存者を捜索していた。焼けた家のなかから、何か音がする。すぐに向かうと、目覚まし時計が悲しく鳴っていたこともあった。住民らは急ごしらえの焚火で暖を取っていた。途方に暮れた様子だ。

 

 神戸市灘区にある五代目山口組総本部も被害を受けたが、ここには地震の翌日、1月18日午前11時から、被災者が500人ほどが並んでいた。総本部では、食料や水の配給をおこなっていた。某幹部は当時、こう語っていた。

 

「地震当日に、地下水を近所の人に分けたのがきっかけです。昼過ぎにはおにぎり、カップ麺、弁当なんかを配りました。北海道から九州まで、組の総力を結集して、24時間態勢で物資を集めました」

 

 総本部前にテーブルを並べ、粉ミルクや紙おむつ、生理用品などの日用品もあった。渡辺芳則五代目山口組組長自ら長靴を履いて、物資の配給をおこなっていた。ある組員はこう語っていた。

 

「いままで、誰かにありがとうなんて言われたことがなかったが、今回、初めて言われたよ」

 

 神戸市などを中心に、6434人が亡くなった阪神・淡路大震災。いつ、どこで地震が起こってもおかしくない日本では、その記憶を引き継いでいかねばならない。

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