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【日本を焼き尽くしたカーチス・ルメイ】なぜ日本は無差別爆撃の “首謀者” に勲章を贈ったのか

カーチス・ルメイ(写真:akg-images/アフロ)
1941年12月8日の太平洋戦争開戦後、しばらく日本軍は米英に対して攻勢をかけていた。だが翌42年4月18日、米軍は早くも報復の機会を得る。日本本土から約1200キロの太平洋上にあった米航空母艦(空母)「ホーネット」から、米陸軍の爆撃機「B‐25」16機が飛び立った。
陸軍の爆撃機は艦載機より大型で、飛び立つまでの陸上走行距離は長い。「ホーネット」の空母の飛行甲板は約250メートル。爆撃機が通常飛び立つ陸上の滑走路より短い上に、搭乗員たちは慣れていない。前代未聞の作戦であった。
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空母が通常搭載している海軍機では、航続距離が短く日本本土攻撃は困難だった。そこで、航続距離が長く海軍機より多くの爆弾を搭載できる陸軍の爆撃機を使ったのだ。
隊長(ジミー・ドーリットル中佐)の名をとった「ドーリットル空襲」において、日本軍は完全に虚を突かれ、東京と川崎、横須賀、名古屋、神戸などが襲われた。ただ、飛び立つことはできても、洋上の空母に着艦することは極めて困難(海軍機でも、訓練を重ねて可能になることだった)だった。このため15機は中国の飛行場へ、1機はソ連へと飛び去った。
日本の軍部は空襲を「被害軽微」「敵機9機撃墜」と発表した。だが実際の被害は死亡87人、重軽傷およそ460人に上った(柴田武彦、原勝洋『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』アリアドネ企画)。「軽微」どころか、大惨事だった。撃墜はゼロ。
米軍はその後、日本本土爆撃のための超大型爆撃機「B‐29」の開発を進めた。同機による日本本土初空襲は1944年6月16日未明、北九州で始まった。中国の基地から飛び立ち、八幡製鉄所を狙った。
劣勢の日本軍は1943年9月、「絶対国防圏」を設定する。戦争を続けるために、文字通り敵に「絶対」進攻させてはならない区域だ。だが米軍は1944年6月15日、その圏内で事実上日本の植民地だった、マリアナ諸島、日本本土の南およそ2500キロのサイパンに上陸した。連合艦隊は総力を挙げて撃退すべく動き、虎の子の機動部隊(航空母艦を基幹とする艦隊)が出撃した。
最新鋭の空母「大鳳」と、真珠湾奇襲以来歴戦の「翔鶴」「瑞鶴」と正規大型空母3隻と、「隼鷹」など客船や水上機母艦などから改造した空母6隻の計9隻の空母からなる大部隊だった。1942年6月の「ミッドウェー沖海戦」で主力空母4隻を米軍に撃沈されて以来、2年かけて海軍がようやく再建した機動部隊であった。サイパン近海の米艦隊を撃破し、上陸した米兵の補給を断ち撃退する狙いだった。
だが、6月19、20日の戦いで惨敗した(マリアナ沖海戦)。満を持して出撃したおよそ400機は、撃墜されるなどしてほぼすべて失った。「大鳳」は米潜水艦のたった一発の魚雷で爆発し、沈没。「翔鶴」と、改造空母の「飛鷹」も沈んだ。戦果はほぼゼロ。世界の海戦史でもまれにみる大惨敗であった。
7月7日、サイパンが米軍に占領され、米軍の新鋭大型爆撃機B‐29は、サイパンと日本本土往復5000キロを飛ぶことができた。ここを占領されたことで、米軍はドーリットル隊のような散発的なものではなく、日本本土を繰り返し爆撃することが可能となった。
一方の日本軍は米本土を空襲することはほとんどできなかった。サイパン陥落で日本の敗戦は決定的となった。昭和天皇はサイパンの奪還に強くこだわったが、実現しなかった。
先述のように、B‐29による日本本土初空襲は米軍によるサイパン上陸の翌日である1944年6月16日未明、北九州で始まった。中国の基地から飛び立ち、八幡製鉄所を狙った。サイパンが主要基地となった。この後しばらく、サイパンから飛び立ったB‐29は、主に高高度から軍事関連施設を狙う精密爆撃を攻撃の中心とした。
アメリカには、軍事施設と民間人の居住区を区別しない無差別爆撃に対し、消極的な意見もあった。1942年2月、同盟国のイギリスがドイツの各地に焼夷弾による夜間空爆を始めたことに対し、「赤ん坊まで殺している、これは軍事行動ではない、犯罪だ、最悪の行為だ」とイギリスに警告している(ダニエル・エルズバーグ『国家機密と良心 私はなぜペンタゴン情報を暴露したか』岩波ブックレット)。
だが、その裏で、日本に対して無差別爆撃の準備を進めていた。1943年春、米ユタ州の砂漠に空襲の試験場が造られた。日本家屋のような木造住宅が建てられ、中には布団と本棚、本まで置かれていた。米軍は「紙と木でできた日本の家屋」に対して、焼夷弾による大規模空襲を想定していたのだ。
焼夷弾は、親爆弾の中に40個近い子爆弾が納められており、子爆弾の中にはゼリー状のガソリンが詰められていた。空中で親爆弾が破裂、子爆弾は燃えながら落ちるというものだ。
砂漠の試験場では、日本の住宅にその焼夷弾がどれくらいの効果があるのかが調べられた。日本人と同じ装備の「消防団」まで組織された。戦果(=日本人にとっては被害)を最大化するための「実験」であった。
B‐29による日本本土精密爆撃は、ジェット気流などに阻まれ、期待したほど戦果が上がらなかった。指揮官だったヘイウッド・ハンセルが更迭され、後任となったカーチス・ルメイは、民間人住宅街も軍事施設も区別しない「無差別爆撃」へ戦術を転換した。
ルメイは、偵察機が撮影した日本本土の写真をみて「ヨーロッパで襲われたような低高度用の対空火器がないことに気がついた」。そして「低空を飛べば燃料消費が少なく、そのぶん爆弾を多く積め、とりわけ夜間なら成功の確率が高い、理にかなった作戦が思い浮かんだ」(カーチス・E・ルメイ、ビル イェーン共著、渡辺洋二訳『超・空の要塞 B‐29』朝日ソノラマ)。
対空砲火が貧弱とは言え、低空で飛べばそれだけB‐29が被弾する可能性も高まる。それでも、ルメイは断行した。
入念な準備のもと、米軍が初めて大規模な無差別爆撃を行なったのが1945年3月9日深夜から10日未明にかけての東京大空襲である。300機以上のB‐29が、隅田川沿岸など東京東部の住宅街に焼夷弾をばらまいた。死者は、東京都の推計で7万2000人、警視庁の発表では8万3793人。戦後の研究者や遺族の調査によれば10万人に及んだともされる。また27万戸の家屋が焼け、100万人以上が罹災した。
その後は大阪、名古屋、横浜といった大都市の無差別爆撃いわば「東海道大空襲」が続いた。地方都市も狙われ、原爆被害を含めて、米軍の空襲で亡くなった日本人はおよそ50万人とされる。命は取りとめたものの心身に傷を負った人、大黒柱を失って困窮した遺族、ことに戦災孤児などを含めれば被害者はその数倍、数十倍にまで及んだだろう。無抵抗な民間人を巻き込んだ、まさに戦争犯罪だ。
前述のように、米軍にはルメイが指揮官になる前から周到な日本爆撃計画があった。当時、米軍に空軍はなく、航空部隊として陸軍の一部にとどまっていた。「空軍独立」は航空部隊幹部の悲願であった。また、B‐29の開発には巨額の国費が投じられていた。こうしたことから、航空部隊幹部としてはB‐29による日本本土爆撃で「大戦果」を挙げる必要があった。
ルメイは組織人、軍人としてそのレールを走っただけともいえる。ルメイでなくても、別の軍人が無差別爆撃という虐殺を遂行したかもしれない。
ともあれ、史実としてはっきりしているのは、虐殺の引き金を引いたのがルメイだということだ。戦後、日本人の被害者や遺族が「鬼畜」「皆殺しのルメイ」と呼んだのは、被害者の心情としては自然だっただろう。
ルメイは、第二次世界大戦終結後も本国アメリカで出世を重ねた。そして1964年、日本政府はそのルメイに「勲一等旭日大綬章」を贈った。「航空自衛隊の育成ならびに日米両国の親善関係に終始献身的な労力と積極的な熱意とをもって尽力した」(拙著『勲章 知られざる素顔』岩波新書)ことが授賞理由であった。
「勲一等旭日大綬章」は、日本人では閣僚経験者クラスに贈られる勲章だ。庶民にはまったく縁がない。
叙勲の所管は内閣府の賞勲局だ。筆者は2011年、ルメイ叙勲の経緯について、同局に聞いた。答えは「戦時中の問題についてはさまざまな議論があることは承知していますが、ルメイ氏は、戦後我が国の自衛隊の建設について非常に功績があったため、そのことを評価することは当然のことだと考えています」との回答だった。
「自衛隊建設の功績」が事実だったとしても、無差別爆撃の虐殺がなくなるはずもない。筆者の見る限り、“ルメイ叙勲事件” は日本政府による戦後最大級の失政だ。無抵抗の自国民10万人を虐殺した将軍を、政府は顕彰してしまった。この事実は永遠に語り継がれるだろう。
ルメイは戦争の後もスポットライトを浴び、かつての敵国日本から顕彰された。戦時中の残虐な無差別爆撃を正当化しようとする機会もあった。しかし彼の指揮による魔弾で殺された日本の庶民たちは、日本の為政者から勲章どころか手向けの言葉すら受けることはなかった。自分たちの無念を言葉にする機会も奪われた。
そして、その遺体と遺骨の一部は、おそらく今も首都・東京の土の中に埋まっている。
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以上、『米軍戦闘機から見た太平洋戦争 ガンカメラが捉えた空戦・空襲』(光文社新書、藤原耕・栗原俊雄著)をもとに再構成しました。米軍が戦闘機に搭載した「ガンカメラ」(自動撮影装置)で記録した戦闘写真の集大成!
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