社会・政治
1万匹のネズミに鳥の侵入…問題だらけだった築地市場
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2018.10.26 16:00 最終更新日:2018.10.26 16:00
東京卸売市場のルーツは、江戸時代にまで遡る。徳川家康が大坂から漁師を呼び寄せ、日本橋での商いを許したのが始まりだ。民間の市場として賑わっていた日本橋の魚河岸だが、1923年9月1日、関東大震災で焼失した。
震災から約2カ月間は芝浦に臨時市場を開設したが、同年の12月、築地にあった海軍研究所の用地の一部を借りて業務を開始する。
1931年に、東京市議会で築地市場建設を認可、着工。1933年に竣工した。そのとき導入したヨーロッパの市場を真似て導入した水はけのよい石畳は、現在も一部残っている。
そして1935年の2月11日、東京都の中央卸売市場として、築地市場が開場した。当時は鉄道が物流の中心であり、「東京市場駅」という国鉄の貨物駅が市場内に設置され、荷下ろしの場所がせり場になった。現在まで残るカーブした場内の形状や橋梁、アスファルトから顔を出したレール、荷積み場の段差は、その名残りだ。
1940年ごろには戦時体制に入り、生鮮食品の価格が一定に定められ、配給割当制に移行。市場から「せり」が不要になり、築地市場は配給拠点になった。
終戦後の1945年からは、市場の4分の1ほどがGHQに接収され、駐車場や洗濯工場として使用されていた。1950年には水産物の配給割当制が撤廃され、「せり」が復活した。
戦後の復興期から高度成長期、バブル期と、それぞれの時代で人々の需要に寄り添い続けてきた築地は「日本の台所」「世界一の魚市場」と呼ばれるまでに発展する。
時代とともに輸送の主流は鉄道からトラックに変化し、1987年1月31日に鉄道輸送が終わった。
取扱量は年々増加し、1987年に絶頂期。ピーク時には水産物の一日あたりの取扱量は2800トン(1987年)、販売金額も1日で26億円(1990年)を記録した。
しかし、バブルの崩壊や直仕入れの業者の増加などが引き金となり、取扱量は大幅に減少。物流の主役が鉄道からトラックに変わり、施設の老朽化も進み、市場の刷新が必要になった。
1980年代後半から、築地市場の再整備について検討がスタートする。1991年にはいったん工事が始まるが難航し、費用の膨張や業界団体とのすれ違いから1999年に再整備工事を断念。2001年、東京都が市場の豊洲移転を決定した。
開場から80年以上経過していた築地市場。老朽化はかなり進行していた。市場は壁で囲われておらず、空調が効かないため、夏場はかなり高温になる。場内に鳥が侵入するなど、衛生面で大きな問題を抱えていたのも事実だ。
さらに、1万匹以上のネズミが生息していたともいわれる。また、鉄道輸送をメインに想定して建造されたため、トラック輸送には対応しきれず、不便だという問題も。2000台以上のターレやフォークリフト、車などがひしめき合い、場内で毎日のように事故が起きていた。
(週刊FLASH 2018年10月30日号)