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解任カルロス・ゴーン「コストカッター伝説」のはじまり
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2018.11.22 21:45 最終更新日:2018.11.22 21:45
フランスのルノー、日産自動車、三菱自動車の会長を兼務し、カリスマ経営者として知られるカルロス・ゴーン氏が東京地検特捜部に逮捕された。容疑は、有価証券報告書に、役員報酬を約50億円低く記載した金融商品取引法違反だ。
11月22日夜には、日産の会長職を解任されている。
ゴーン氏といえば、破綻寸前だった日産をV字回復させたことで名をあげた。
ルノーから日産に派遣されたのが1999年。当時、日産は絶望的な状況にあった。それまでの8年間に7回も営業赤字を出し、有利子負債は2兆円を超えていた。43種類の車を出していたが、黒字を出していたのはわずかに4車種だったという。
日産自動車の再生計画について、日本経済新聞の連載「私の履歴書」でこう語っている。
《日産自動車の再生計画は社員が自ら作ったものだった。各部門から集められた中間管理職の「クロスファンクショナルチーム」(CFT)が中心を担った。
1チームは10人。購買、生産、財務など10のチームに分かれ、詳細を詰めていった。CFTは私の経営手法の中心をなし、それまでにも他の企業で経営課題をいくつも解決してきた実績があった。
私も各チームの議論に加わった。中でも思い出すのは購買だ。日産の車はルノーに比べて20%も高く部品を買っていた。高級品を使っていたわけではない。取引していた部品メーカーがあまりにも多く、規模の経済を生かせていなかった》(2017年1月13日)
ゴーン氏は「日産リバイバルプラン」の名の下、5つの工場を閉鎖し、従業員を2万人減らした。部品取引も大きく見直し、当時の商慣習だった「系列」の破壊をもいとわず、コスト削減に邁進した。
「コストカッター」と強い批判を浴びるも、2002年3月期に「有利子負債を7000億円以下に減らす」などの公約を1年前倒しで達成し、V字回復を実現させる。
ゴーン氏のコストカッター伝説は、いったいいつ誕生したのか。これについても、「私の履歴書」で語っている。
ブラジルで生まれ、祖父の母国レバノンに移住したゴーン氏は、フランス最高峰の教育機関「パリ国立高等鉱業学校」に進学。在学中に、タイヤメーカーのミシュランからヘッドハンティングされる。
入社3年目で工場長に抜擢され、入社7年目でブラジルのリオデジャネイロに赴任。当時ブラジルは経済危機が深刻化しており、1年で物価が10倍になるほどのインフレに陥っていた。
ミシュランのブラジル事業は巨額の負債を抱えていたが、ゴーン氏は政府の物価統制に対抗し、また収支管理を徹底したことで、ブラジル法人の業績は急回復する。
この成果が評価され、ゴーン氏は1989年にアメリカへ赴任することになる。当時、アメリカではミシュラン、グットイヤー、日本のブリジストンが三つ巴の戦いをしていた。
ミシュランは業績を上げるため、1990年、同業のユニロイヤル・グッドリッチを買収。ゴーン氏は、古い設備を抱え、生産能力が衰えていた3工場を閉鎖し、事業統合によるスマート化を図った。このときに「コストカッター」の名前がついたのだという。
再建の過程で、ミシュラン、ユニロイヤル双方から人材を集めて「経営執行委員会」を作るのだが、これが後に日産自動車で活躍する「クロスファンクショナルチーム」の原型なのだ。
ゴーン氏は、1996年、ルノーに転職。当時のルノーは労働者の高齢化、旧式の生産設備、官僚的な組織と問題が山積みで、赤字体質だった。そんななか、再び「クロスファンクショナルチーム」を作り、部門の厚い壁を壊していく。
このとき打ち出したのは「200億フラン削減計画」だった。社内では「ゼロが1つ多いのではないか」との意見もあったが、ここでも結果を出し、ルノーは復活する。
こうした、コストカットによる企業再生という実績を持って、ゴーン氏は、1999年、日産に赴任することになる。
ゴーン氏は、「私の履歴書」最終回(2017年1月31日)で、《ルノー・日産アライアンスのトップを私1人で務めるのは、今日この時点で、最も機能する経営形態だということだ》と語っているが、あまりに権力が集中しすぎたことが、50億円のごまかしにつながったことは間違いないだろう。
最終回では、日産から引退した後の展望についても語っている。子供や孫と過ごす時間が長くなるが、知的活動にも積極的に参加し、教鞭や人のサポートにも関心があると語りつつ、《計画も色々あるが、人生は計画通りにはならない》と書いている。
ゴーン氏は、まさしくこの記述どおり、逮捕という想定外の事態を迎えることになる。身をもって「人生は計画通りにはならない」ことを証明した形だ。