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一度は国を捨てたバングラデシュ男性、日本で未来を見つける

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2018.12.13 11:00 最終更新日:2018.12.13 11:00

一度は国を捨てたバングラデシュ男性、日本で未来を見つける

 

 かつて東パキスタンと呼ばれた地域は、1971年、独立戦争を経てバングラデシュ人民共和国となった。橋本羅名さんが6歳のときだ。バングラデシュは東西と北をインド、南東をミャンマーと接し、面積は日本の約4割という小さな国である。

 

 しかし人口は1億6000万人を超え、人口密度は世界有数の高さだ。労働力不足が深刻な問題となっている日本。いまバングラデシュは、人材の宝庫として注目を集める国のひとつだ。

 

 

「僕は23歳のときに日本に来た。12月で54歳だから、人生の半分以上は東京・葛飾区の堀切に住んでいる。バングラデシュ時代は住居を転々とした。

 

 日本ではいま、高齢化と労働力不足が問題になっている。これを打開するために必要なのは労働人口。バングラデシュには若い人がいっぱいいる。

 

 だいぶ前から現地に日本語学校を作り、即戦力になる人材を育てようと考えていた。僕は長く日本にいるから、どの分野でどういう人材が必要なのかわかっている」

 

 バングラデシュで住んでいた島では、独立戦争の際にイスラム教徒とヒンズー教徒の対立が激化した。羅名さん一家はイスラム教徒だが、父親は迫害されるヒンズー教徒の住民たちをかくまったり、逃がしたりした。

 

 そのため独立後は、イスラムの若い軍人たちから反独立派と狙われた。森に隠れた父との連絡役を、8年近く続けた。

 

「空爆や銃で撃たれて死んだ人たちをたくさん見た。死んだ人は幸せだと思った。残った人は、とにかく1日を生きていくのが大変。そのなかで、憎しみとか全部背負って、自分の生活を再生しなければいけなかった」

 

 中学を出ると親戚を頼って首都のダッカへ行き、高校生活を送った。親戚はみな裕福で、貧しい羅名さんは敬遠された。知り合ったホテル経営者が、家庭教師の仕事をくれた。

 

 住み込みで5人の子供の勉強を見ながら大学へ行った。卒業して就職したかったが、それができなかった。どこでも賄賂を要求された。そんなカネはなく、両親にも言えなかった。

 

 自分の将来が見えず、国にとどまる意味を感じなくなった。

 

「ヨーロッパやソ連に働きに行く同級生もいた。僕も行きたかった。ある日、日本がバブルで人手不足だと聞いた。バングラデシュは出稼ぎに行くのが盛んな国。1988年、姉夫婦とおじさんに1800ドル借りて、日本行きの飛行機に乗った」

 

 西も東もわからず言葉もわからなかったが、ゴム工場に勤めることができた。そこで8年間、それから2軒の焼き肉屋で5年間働いた。1998年に日本人女性と結婚し、家族ができた。

 

「日本人の倍ぐらい働いても、日本人のような給料はもらえなかった。母国の家族の面倒を見る必要もあり、それで独立して焼き肉屋をやろうと決めた。これが転機になった」

 

 開店資金を国民生活金融公庫から借りたくても、保証人がいなかった。結婚に反対した妻の実家とは、絶縁状態が続く。

 

 堀切菖蒲園駅前で、保証人になってくれるよう、通行人に頼んだ。実際に手を差し伸べる日本人夫婦が現われた。長く海外で働いた経験があり、羅名さんの立場をよく理解してくれた。

 

 こうして2001年、37歳のときに堀切で「和牛炭火焼肉 牛将」を始めた。BSEやリーマンショックなどを乗り越え、多いときは6店舗になり、39人の従業員を抱えた。

 

 母国にも会社を設立し、450人が働く洋服の検品工場を作った。だが、6年ほどして仲間に検品会社を乗っとられてしまう。

 

「しかも、日本の店も東日本大震災以降、セシウムの問題や人まかせにしたこともあって駄目になり、展開中の店を閉めざるをえなかった。結局、目が行き届かなかったし、脇が甘かった。

 

 50歳で事業に失敗して、今は借金だらけ。それでも出資してくれる方がいて、10月に堀切菖蒲園駅の近くに、家族で経営する新しい『牛将』を開店した」

 

 学校を作り、人材を日本へ送る計画は一頓挫した。しかし夢は捨てていない。「夜の後には必ず朝が来る」。自らそう語るように、羅名さんの新たな挑戦は始まっている。

 


(週刊FLASH 2018年12月18号)

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