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ブラジル生まれの「カルロス・ゴーン」がカリスマになるまで

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2019.02.16 06:00 最終更新日:2019.03.12 13:06

ブラジル生まれの「カルロス・ゴーン」がカリスマになるまで

1960年代半ばのゴーン被告(写真・時事通信)

 

 カルロス・ゴーン被告(64)を長年取材してきたジャーナリストの井上久男氏は、こう語る。

 

ルノーから日本に送り込まれたころのゴーンは、それこそ、野心に溢れた欧米型のプロ経営者でした」

 

 

 ゴーン被告の半生を追っていこう。レバノン人の両親の間に、ブラジルで生まれた。幼少期に、生水を飲んでしまい病気になる。これがきっかけで、アマゾン川流域の内陸部から、リオデジャネイロへ引っ越した。

 

 それでも体調が回復せず、両親の故郷・レバノンへ移った。冒頭の写真は1960年代半ばのボーイスカウト時代のものだ。

 

学生時代(写真・時事通信)

 

 レバノンでは、高校まで一貫教育の学校で学んだ。写真は1967年、仲間と、休暇中にユーゴスラビアに行ったときのもの。

 

 高校卒業後、母のすすめもあり、フランスの大学へ。フランスのタイヤメーカー大手・ミシュランに就職すると、26歳の若さで工場長に抜擢された。

 

 生まれ故郷への思いは強かったようだ。ミシュラン在籍時代、1985年に幹部としてブラジルに赴任した際、彼は喜んだ。だが、そこで頭角を現わして、業績を立て直したことが、より大きな北米市場の責任者の地位へと繫がった。

 

 1989年、ミシュラン北米CEOとしてアメリカに渡ったゴーン被告。工場を閉鎖し、「コストカッター」の異名がついた。アメリカで次女、三女、長男が誕生する。

 

「ルノーの再建は火星人に委ねられた」。1996年、ゴーン被告がルノーの上席副社長にヘッドハントされると、メディアはそう評した。フランスで最高の教育を受けた「ミシュランのナンバー2」に対してだ。

 

 一方、日本はこの「異端」を受け入れた。1999年3月、ルノー日産グローバル・アライアンスを締結し、日本にきたゴーン被告。同年6月に日産COOになり、同年10月に「日産リバイバルプラン」を発表した。

 

 そして日産のV字回復の功績もあり、2005年にルノーの社長兼日産CEOになる。

 

「リストラで生活を奪われた当事者は、たまったもんじゃないですが、改革という美名のもと、好意的に受け止められたことが、ゴーンには追い風になっていました」(井上氏)

 

 経済ジャーナリストの松崎隆司氏は「メディアには徹底して懐柔策を取った」とこう解説する。

 

「日本語で『私を信じてください』と語り、工場の視察では従業員と社員食堂で食事し、都市対抗野球の応援に駆けつけたのも、すべてリストラの過酷さから目を逸らすためだったといえます」

 

 日本でカリスマになるのに、時間はかからなかった。しかし、井上氏はこう見ている。

 

「ゴーンは、アメリカの大企業に移籍するつもりだったはずです。ルノーにいる限り、叩き上げの移民ですし、もともと、フランス財界に入れる出自じゃない。実際、GM入りがほぼ確実というような報道がアメリカでありました。

 

 ただ、アメリカの自動車産業が低迷してゴーンも諦めたのではないでしょうか。だから、徹底して日産から搾り取るようになったと考えます」

 

 かつて、ゴーン被告は「私の履歴書」(日本経済新聞)で、大切なことは「アイデンティティを失わずに多様性を受け入れること」と記した。それは、自身のアイデンティティに向き合い続けた結果だったのではないだろうか。

 

 出世しても孤立したアウトサイダーはいま、拘置所の中で再び「独り」である。

 


(週刊FLASH 2019年2月26日号)

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