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元日経記者が語る北朝鮮抑留記「私は2年間スパイ扱いされた」

社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2019.07.20 06:00 最終更新日:2019.07.20 06:00

■尋問の様子

 尋問はどのようにおこなわれたのか。

 

「肉体的拷問はありませんでした。私が内調や公安調査庁に提供した情報・資料を、調査官が時系列的に自白調書にまとめ、それを認めていくのです。北朝鮮の工作員たちが報告してきた情報を正解とし、それに私の自白がどこまで肉薄するかがポイントです。パスすると清書し、それを調査官がハングルに翻訳してトップに上げるのです」

 

 自白のウソがバレると激怒された。1500枚ほど調書を書いたが、すべて「自分はスパイ」という筋書きにすることが絶対条件だった。

 

 拘束初日から3カ月間は、終日、尋問が続いた。だが、2000 年3月初旬の「尋問終結宣言」以降、杉嶋氏の身柄は日朝間の外交カードに転化させられた。「帰国は日本政府の謝罪次第」と言われた。

 

 だが、日本政府や外務省の動きはさっぱり伝わって来ない。次第に杉嶋氏は日本政府に不信感を抱くようになる。後に知るが、日本政府は一切、救出に向けた行動をとっていなかった。

 

 2000年6月21日、平壌の人民文化宮殿で、日本政府に交渉のテーブルに就かせるための記者会見を行うことになった。北朝鮮が用意した声明文や想定問答集を暗記させられ、前日、情報機関トップら7人の前でリハーサルまでしたが、当日、迎えの車は来なかった。

 

 中止の理由は、このときTBSが「杉嶋氏が平壌で有罪判決を受けた」との誤報を流したからだが、詳細はわからない。事態は停滞したままとなる。

 

■そして解放へ

 

 2002年2月11日、突如、杉嶋氏は情報当局トップから解放通告を受ける。

 

「あなたは、我が国の主権を侵害するという共和国刑法48条に抵触する大罪を犯したが、家族からの嘆願と外務省からの嘆願等を考慮し、寛大なる措置を取ることにした。あなたを国外へ追放する」と宣言された。

 

 この後、(1)帰国後は日朝友好のために尽くす、(2)共和国の悪口は言わない、(3)ここで起こったことは口外しない、の3点を盛り込んだ誓約書を書かされ、印鑑と拇印を押した。

 

「さらに、『あなたを一生見張っており、あなたがしていることはその日のうちに我々に連絡が届く。誓約を守らないと1カ月以内にこの世から消えることになる』と脅されました。『あなたには家族も親類もいるだろう』と、優しい語調ながら繰り返し脅迫されたのです」

 

 なぜ解放されたのか、本当の理由はわからない。だが、尋問中、ひたすらスパイ容疑を認め、悔い改める姿勢をとっていたことは大きかったのではないかと杉嶋氏は考えている。

 

 さらに、帰国させるタイミングが見付かったことも大きい。アメリカのブッシュ大統領が北朝鮮を「悪の枢軸」と断定したことで、米朝関係は膠着。その打開の切り札として、北朝鮮が日朝関係に友好的なシグナルを発するため解放した可能性もある。

 

「北朝鮮で驚いたことは、あの国の諜報レベルの高さです。私は1987年以来、自宅も書斎も盗聴されていたようで、個人情報はすべて筒抜けでした。
 ペンネームで雑誌に書いた原稿も、銀行口座の振り込み履歴から特定していました。

 

 尋問中、『お前の家の書斎の本箱の奥にロシア女と撮った写真があったな』などと言われたこともあります。間違いなく、家宅侵入していたのでしょう。また『お前の記録だけで1巻の映画になるくらいだ』などと言われたこともあります。向こうが持っていた情報は、恐るべき量でした」

 

 こうして、杉嶋氏は無事に帰国した。
 帰国後6カ月ほどは尾行がついたが、今は影も形もない。とはいえ、ときどき郵便受けが開けられるなど「見張っているぞ」というシグナルは送られるという――。

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