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【1940年、幻の東京五輪】(5)迷走に次ぐ迷走でメイン競技場が決まらない!
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2016.05.31 17:56 最終更新日:2016.07.05 22:37
1936(昭和11)年7月31日に、次回オリンピック開催地が東京に決定。東京市内のみならず、日本全土が大いに沸き立った。当然、すぐにも組織委員会が結成され、大会開催のための「実務」がおこなわれるはず……と誰しも思ったが、現実はそうは簡単には進まなかった。
開催の主体が文部省になるのか大日本体育協会(体協)になるのか、はたまた東京市になるのかがハッキリしなかった。
さらに、組織委員会を立ち上げるための準備委員会に市からの代表委員が少ないことや競技場の場所に関する見解の相違などで、体協と東京市とが対立。なかなか組織委員会そのものを決定することができなかった。
当然のことながら、その間、施設のことや競技のことなどを決められるわけもない。その対立は、なんと翌年の1937(昭和12)年になってもしこりを残していた。こうした進行の立ち遅れが、徐々にプロジェクト全体に響いていくことになる。
それでも1936(昭和11)年12月24日には、組織委員会の第1回会合がおこなわれた。この段階でオリンピック村候補地は8カ所が挙げられていた。競技場候補地は9カ所あったが、ほぼ2カ所に絞られつつあった。
それは当時の東京市長である牛塚虎太郎が推す月島の埋立地、そしてIOC委員の副島道正や体協関係者が推す神宮外苑である。
しかし、東京湾に面した月島は風が強く、陸上競技などの会場には向かないことがわかってくる。しかも巨大な競技場を建設する土地として、埋立地は適当ではない。こうして月島案はいつの間にか消滅するかに見えた。
ところが、これに異を唱える男が現れた。東京帝国大学工学部教授の岸田日出刀である。
岸田は文部省から依頼された施設調査員として、開催中のベルリン大会に派遣されていた。そこで開会式を目撃することになり、その圧倒的なスケールに打ちのめされた。こうした経験に基づいて、岸田は神宮外苑案に反対したのである。
その理由として岸田は、
(1)観客10万人収容のメインスタジアム建設には敷地が狭い
(2)外苑が持つ風致美を損なう
(3)由緒ある神宮外苑競技場を壊さねばならない
……という3点を挙げた。そして代替地として、陸軍の代々木練兵場を推挙した。
しかし代々木練兵場案には陸軍が難色を示し、諸般の事情から神宮外苑案でまとめざるを得なくなる。それでも、神宮外苑案の問題点が解消されたわけではない。
おまけに明治神宮を管轄する内務省から競技場改修に関して横槍が入ったため、問題はさらに混迷の度合いを深めてしまう。一時、内務省側が態度を軟化させたこともあるが、すぐにそれが翻されたりして、競技場問題は紛糾。IOCへの説明も苦しさを増してきた。
しかし、岸田はこんな状況下でも、次なる代案を考えていた。それが駒沢ゴルフ場だ。いよいよ神宮外苑案が行き詰まってきたところで、この駒澤案が急速に浮上。
最後は1938(昭和13)年5月1日に副島がバイエ=ラトゥールIOC会長に国際電話をかけて、急転直下、競技場建設場所は駒澤案で決着を見ることになる。
この他にも、「オリンピックの華」であるマラソン競技のコース選定でも二転三転。当初は神宮外苑に主競技場を建設する予定だったため、外苑から花小金井まで西に向かうコースを計画。
ところが、なぜか建設中の第二京浜国道を南下して横浜市鶴見区総持寺付近まで行くコースが浮上。紆余曲折の末、主競技場の駒沢ゴルフ場から西に向かう駒沢~三鷹コース案に決定する。
さらに聖火リレーもさまざまなプランが浮かんでは消えて、一時は聖火リレーそのものが消滅しかかったが、IOCカイロ総会で各国委員からの熱望によって復活……と、ありとあらゆる計画が激しく迷走。
この時点で、東京大会はすでに風前の灯だったといえるかもしれない。
<著者プロフィール>
夫馬信一 1959年、東京生まれ。1983年、中央大学卒。航空貨物の輸出業、物流関連の業界紙記者、コピーライターなどを経て、書籍や雑誌の編集・著述業につく。主な著書に『日本遺構の旅』(昭文社)、『ヴィンテージ飛行機の世界』(PHP研究所)など。今年1月発売の『幻の東京五輪・万博1940』(原書房)は、9年の歳月を費やし札幌、大阪、長崎など全国各地への取材を経て完成した。