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オンリーワンの男たち/8000m峰全座登頂した男、死闘からの生還

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2020.04.22 16:00 最終更新日:2020.07.23 21:30

オンリーワンの男たち/8000m峰全座登頂した男、死闘からの生還

エベレスト登頂(写真提供:株式会社ハニーコミュニケーションズ)

 

 世界には、8000mを超える山が14座ある。2012年、日本人として初めて14座の登頂を成し遂げたクライマーが、プロ登山家竹内洋岳だ。世界で29人目の偉業となる。

 

 

 竹内は1971年、東京・神田で生まれた。祖父に連れられて山登りとスキーを始め、小学生時代に野外学習でさらに、その楽しみに取り憑かれ、高校、大学と山岳部に所属した。1991年大学1年目にしてシシャパンマ(8027m)の登山隊メンバーとして選ばれたが、7500m地点で仲間の頂上アタックを一人で見送った。

 

「そういう役割分担だったんです、お前は待ってろと。でも、当時はまた来るからいいやみたいな感覚でした」

 

 1995年、日本山岳会のマカルー(8463m)登山隊に最年少で参加。周りは憧れの先輩ばかりで、朝から晩までしごかれた。

 

「なにをしごかれたか、もう覚えていないくらい、すべてでしごかれた(笑)。 天気が悪かろうが荷物を担がされて、『お前、行ってこい』と。いま考えれば効率が悪かったのかもしれないが、天気が悪いなりに工夫したり、試行錯誤をたくさん経験できた」

 

 このマカルーが1座目の登頂で、翌1996年はエベレスト(8848m)とK2(8611m)で3座を達成した。

 

マカルー登頂(写真提供:株式会社ハニーコミュニケーションズ)

 

 それまで日本隊の一員としてアタックしてきた竹内は、2001年、ナンガ・パルバット(8126m)で国際遠征隊に初参加する。さまざまな国から寄り集まった国際遠征隊の中で、片言の英語にもかかわらず、信頼を勝ち得たのは、持ち前のコミュニケーション力のおかげだった。

 

 仲間から「コマツ」(コマツ製のブルドーザー)のあだ名で呼ばれるほど疲れ知らずのパワフルさで、最終的にはルートメイキングを任されるようになり、見事4座目を成功させた。その後、遠征隊で知り合ったドイツ人登山家ラルフ・ドゥイモビッツをパートナーに順調に登攀を重ね、2006年、カンチェンジュンガ(8586m)で8座目をものにした。このとき、竹内は「プロ登山家」を自称する。

 

「世間に対し、14座すべてを登るという宣言でした。素人ではなく、プロフェッショナルとして登山を成功させていきますという覚悟と意思表明です」

 

 シェルパ、酸素ボンベを使わず、少人数のチームで短期間で登頂を目指す、速攻登山にこだわった。

 

 順風満帆だった竹内だが、2007年、ガッシャーブルムII(8034m)の6900m地点で雪崩に巻き込まれ、腰椎三番破裂骨折という大ケガを負った。仲間の一人は行方不明、もう一人は救助後に命を落とした。最後まで1人だけ呼吸を続ける竹内を絶対に死なせてはならないと、スイス遠征隊をはじめ、その他海外からのトップクライマーが決死の救助に加わった。

 

 筆者の友人のオーストラリア人クライマーが、偶然現場を目撃している。
「すごい雪崩だった。ヒロが助かったのは奇跡としかいいようがない。あの場に居合わせたクライマー全員がヒロを助けようと勇敢な行動をとった。吹雪の暗闇のなかに酸素ボンベを取りに往復した奴もいた」

 

 6300m地点のテントで手当てを受ける竹内は、激痛のあまり錯乱状態になった。「オレは1人で下りる。ほっとけ!」「誰が助けてくれと言った」などと叫び続けたという。

 

 偶然だが、ベースキャンプに元F1ドライバーの片山右京がいた。右京についていたシェルパ2人は、かつて竹内とともにしごかれ、一人前になった男達だ。2人から竹内の様子を聞いた右京は、酸素と医薬品を持たせ、竹内のもとに届けさせた。メンバーが2日かけて到達する6300mまでを12時間で登った。これが、竹内の命をつなぐことに役立った。

 

 問題は6300mからどうやって竹内を下ろすかだった。このとき、隣のブロードピーク(8051m)に竹内の盟友ラルフがいた。事の次第を知ったラルフは衛星電話でパキスタンのドイツ外務省に連絡、そこからメルケル首相に連絡が行き、すぐにメルケル首相からムシャラフ大統領(当時)に救助要請がなされた。結果、パキスタン空軍が竹内をヘリで救出した。

 

 竹内は日本からの迎えを待ち寝たままの状態で帰国した。手術は成功し、無事、命は救われた。九死に一生を得たが、竹内の心中は穏やかではなかった。救出費用で1000万円の借金を背負ったこともあったが、「なぜ自分だけが生き残ったのか」煩悶する日々が続いた。

 

「こんな言い方をしてはいけないんだろうけど、見舞客と会うのが苦痛でしょうがなかった」と当時の胸中を語る。見舞客のなかには、竹内と一度も面識がなく、冷やかしのような人も少なくなかった。見舞客に毎回事故の様子を説明する自分自身に対し、死んだ仲間を見世物にしているような自己嫌悪が募った。

 

「たくさんの方々に大変な迷惑をかけたことはわかっています。でも、自分の体がどの程度回復するかもわからない恐怖のなかで、『よかったですね』『ラッキーですね』って励ましを受けて、『ありがとうございます』と言い続けることがしんどかった。それで、人に会うのが苦痛になって、面会謝絶にしてもらったんです」

 

 ラッキー(幸運)とは一体なんなのか。自分と死んでしまった人間を分けたものはなんだったのか、苦悶の毎日が始まった。

 

「ラッキーだとは自分でも思うし、命があるのは本当に感謝だけど、ラッキーって、じゃあなんだよと。自分は偶然生き延びたけれど、一緒に登っていた奴は死んで、その差は紙一重でしかなかった。自分が助かってラッキーなら、死んでしまった2人はアンラッキーだったって、その家族に言えるのかと。自分が助かったことの意味というか、自分は今ここで何をやっているんだという、すさまじい混乱がありました」

 

 体は、医師が驚愕するほど短期間で回復した。竹内は気持ちを整理するため、事故現場であるガッシャーブルムIIに戻ることにした。

 

「とにかく一刻も早くガッシャーブルムIIに戻らないと、もう登れなくなってしまうという憔悴感、恐怖心があったんです。ここで立ち止まったら、もう終わりみたいな」 

 

 事故のことを明確に思い出し、現場を検証したい。自分はなぜ雪崩を見抜けなかったのか理解したい。亡くなった仲間を弔いたい。そうした作業を通して、自分の気持ちがクリアになると思った。

 

「でも、当たり前ですけど、事故の痕跡なんて現場になにも残ってなかった。死んだ仲間を弔ったけれど、このままチャレンジを続けたいという前向きな気持ちにはまったくなれなかった。逆にそんな気持ちを抱けると思っていた自分に失望しました。自分に対してがっかりした。こんなことで気持ちに整理がつくと思っていた自分への嫌悪感がすごかった」

 

 自分への嫌悪感から、竹内は「事故現場にじっとしていられなかった」と言う。その思いが、2008年、ブロードピーク(8051m)の登頂につながる。事故から1年足らずで、11座と記録を伸ばした。竹内は自分に対する嫌悪感、整理のつかない想いを、「この登山で置いていった」と表現する。

 

 その後、2009年から毎年1座づつ8000m峰にアタックし、2012年、ダウラギリ(8167m)で日本人初の14サミッターとなった。17年を費やした14座だった。竹内にとって、14座達成とはどんな意味があったのかを問うと、しばらく考えて「結局は仲間との約束を果たしたにすぎないです」と静かに答えた。

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