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「日本人サッカー海外プロ第1号」論争に決着…「さだまさしの弟」が奥寺康彦より2年早かった

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2020.11.11 06:00 最終更新日:2020.11.11 06:00

「日本人サッカー海外プロ第1号」論争に決着…「さだまさしの弟」が奥寺康彦より2年早かった

 

「日本サッカー史上、最初の海外プロ選手は誰か?」という問いに、多くのサッカーファンは1977年からドイツ・ブンデスリーガで活躍した奥寺康彦(68)と答えるだろう。

 

「しかし数年前、一部ファンが、奥寺以前に香港でプロ契約をした “佐田繁理” という人物がいると主張し、論議の的となってきました」(スポーツライター)

 

 

 そこで本誌は、この謎を解明するべく、佐田繁理氏本人を直撃した。

 

「1998年、当時Jリーグチェアマンだった川淵三郎さんと会食したときのことです。僕の経歴を話したら、『ちょっと待てよ。それは歴史が塗りかえられる……』と驚いて、その場で真剣に調べ始めて。そのとき、自分が日本人の海外プロ選手第1号だったと初めてわかったんです。

 

 後日、奥寺さんに話したら、『そうだったのか!』とやはり驚かれてね」(佐田氏、以下同)

 

 佐田氏は、サッカーが盛んな長崎市で生まれ育ち、長崎南山高校時代には県選抜に選ばれるなど、注目される選手だった。だがその後、佐田氏は中国語に興味を持ち、台湾大学への留学を決める。同大学のサッカー部では、100m11.2秒の俊足を生かし、左ウイングとして活躍。すると、2年生時には、台湾代表に選出された。

 

「『日本人がなぜ?』と思われるでしょうね。私は当時、『日本で暮らす台湾出身の華僑』だと思われていたんです(苦笑)。華僑の人たちは、台湾に戻っても日本人名のまま活動することが多く、私もそのひとりだと。

 

 でも、代表合宿前にパスポートを見せたら、日本国籍だとわかり『これじゃダメだ』と。『選ぶ前にきちんと調べろよ』と思いました」

 

 その気になっていた代表入りがなくなり落ち込んだものの、1975年に、今度は香港プロリーグの「東方足球隊」から声がかかった。

 

「むしゃくしゃしていたんで、二つ返事でOKし、すぐに香港に行きました。試合を見て、これなら通用すると思い、すぐに契約しました」

 

 香港初の日本人選手が来るということで、地元では注目の的に。現地新聞には、日本から援軍が来たという意味で「東方日籍援軍」と書かれた。

 

 期待の大きさは待遇面にも表われていた。日本で大卒初任給が約9万円だった時代、佐田氏は月15万円の報酬を得ていた。さらに勝利給、得点ボーナスを含むと、最高で月200万円ほどの追加報酬が支払われたこともあったという。

 

「当時、香港では外食でも30円ほど。ほとんど使わないから、お金は貯まりました(笑)」

 

 しかし、海外プロ生活は1年で終わりを迎える。兄と交わした「約束」があったからだ。

 

「じつは私の兄は、歌手のさだまさし(68)なんですよ。中学生のころ、兄から『俺が独立したら手伝ってほしい』と言われ、『わかった』と約束しました。そして1976年に、兄から声をかけられたので、約束を果たすべく帰国しました。悔いはないですよ」

 

 佐田氏は、先駆者として現在の日本代表にエールを送る。

 

「技術は、いまの子たちのほうが、200倍うまい。でも球際の攻防は、僕らのほうが激しかったです。香港では、くるぶしの骨が見えるほど削られたこともあります。反則をしろとは言いませんが、『個々の戦いで絶対に勝つ』という姿勢が欲しいですね」

 

“海外プロ第1号論争” これにて決着!

 

(週刊FLASH 2020年11月24日号)

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