2020年2月11日に惜しまれつつ亡くなった、野村克也さん(享年84)。1周忌にあたり、15年間近くマネージャーを務めた小島一貴さんが、短期集中連載で「ノムさん」の知られざるエピソードを明かす。今回は、第1回だ。
*
野村監督がテスト生として入団して、戦後初の三冠王に輝くなど、球界を代表する打者に成長したことは、多くの野球ファンがご存じだろう。監督の成功の過程は、ひと言でいえば「努力と研究」の賜物である。
若かりしころの監督は、練習をしなければ一流になれないと思い、毎日の素振りを欠かさなかったという。
【関連記事:亡くなった野村克也さんが、最後まで嫌った「8人の男たち」】
当時、先輩たちから「バットを振って一流になるなら誰でもなれるよ。この世界は才能と素質だ。着替えて一緒に飲みに行こう」と、毎晩のように誘われたそうだ。しかし、年俸が安くお金がなくて服を持っていない(1年めは私服を買えず、高校時代の学生服で過ごしていたらしい)ことも幸いし、飲みに行くのを断わって素振りに励んだ。
そのうちに素振りの音で、いいスイングか悪いスイングかわかるようになったという。「ブーン」というのはダメで、「ブッ」という短い音がよいとのこと。また、「素振りは俺の睡眠薬」ともおっしゃっていた。素振りをしなければ眠れないようになり、夜遊びをしてどんなに遅い時間に帰っても、素振りを欠かさなかったそうだ。
4年めに本塁打王を獲得したが、2年間はやや成績が低迷した。とくにカーブが打てない。「カーブの打てない、の・む・ら!」とヤジを飛ばされていた。素振りは毎晩続けていたが、猛練習だけではカーブを克服できないことに気づく。
ある人から差し入れられたテッド・ウィリアムス(MLB最後の4割打者)の著書の翻訳版に、「投手はサインを見た後、投げる球種を決めている。それが投球フォームに微妙な変化になって現われる」という趣旨のことが書いてあった。監督はこれを「クセ」のことだと気づき、投手のクセの研究が始まった。
しかしスマホはおろか、家庭用ビデオカメラもない時代である。知人に16mmフィルムで、ネット裏から対戦相手の投手を撮影してもらった。当時のライバルであり、苦手にしていた稲尾和久投手(西鉄)のフォームは、フィルムが擦り切れるほど何度も見たという。
そしてついに、稲尾投手のスライダーのクセを発見し、攻略しはじめる。ところがオールスターのときに、同僚で南海のエースだった杉浦忠投手が「野村はよく研究してるよ」と稲尾投手に話してしまい、クセを克服したそうだ。
その後も監督による「クセ」の研究は続き、多くの名投手を攻略した。こうした一連の経験から監督が得た教訓は、「努力は大事だが、努力の方向性も大事。正しい努力をしなければ成果は出ない」ということだという。
また同じころ、監督は配球にも興味を持ち始めた。カーブが打てずに頭を抱えていると、先輩の岡本伊三美選手が「野村よ、殴ったほうは忘れても、殴られたほうは覚えているものだぞ」と声をかけてくれた。つまり、「直球を痛打された投手は、以後、変化球で攻めるなど工夫をしてくる」という意味だった。
スコアラーなどいない時代、査定担当の球団職員である尾張久次さんにお願いして、カウント別に球種を集計してもらった。すると、監督に対しては2ボール0ストライクの場合、内角には1球も来ていなかったことがわかり、「これはおもしろい」と興味を持った。ヤマを張って打つのは二流といわれた時代だが、データを根拠とする読みだと発想を転換し、打撃に生かした。
そして配球の研究は、捕手として投手をリードするのにも役立った。監督は「捕手をやっていなかったら、あんなに打っていない」というのが口癖だった。
投手のクセや配球を研究していた監督だが、肉体の強化についても斬新な発想で取り組んだ。当時の球界では、重いものを持つと筋肉が固くなるといわれ、ウエイトトレーニングはタブーとされていた。しかし、日米野球でウィリー・メイズやスタン・ミュージアルらの太い腕を間近で見て、監督はこのタブーを迷信だと思うようになった。
彼らは、打席で金田正一投手(国鉄)を始めとする日本の名投手たちを相手に、見送るのかなと思ったタイミングでバットを振り出し、ポンポン本塁打を打っていたという。そのスイングスピードの速さに、衝撃を受けたのである。
もっとも、筋トレのノウハウがまったくない時代。砂を入れた一升瓶をダンベルの代わりにしたり、軟式のテニスボールで握力を鍛えたりしたそうだ。
監督は選手時代、常に「努力と研究」を怠らなかった。その姿勢は監督になってからも貫かれていたからこそ、数々のユニークな戦術を編み出すことができたのだろう。
80歳を過ぎてからも「野球がわかったなんて、まだまだ言えないよ」と語っていた。最後まで野球に対する「努力と研究」は続いていたのである。