プロ野球のレジェンドOBたちが、軒並みYouTubeを始めている。当時の裏話をバンバン知ることができて、ファンにはたまらない時代だ。2020年12月にYouTubeデビューした平野謙(65・中日、西武、ロッテ)も、40~50代のプロ野球ファンにとっては、間違いなくレジェンドの一人だ。
平野は1981年に一軍デビューし、1996年に現役引退するまで、盗塁王1回(1986年)、ベストナイン1回(1988年)、ゴールデングラブ賞9回(1982、1985、1986、1988~1993)と、輝かしい記録を残した。また、バントの名手としても知られ、1988年に巨人の川相昌弘に抜かれるまで「通算451犠打」はプロ野球記録であった。
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そんなレジェンドの平野だが、『平野謙の野球道チャンネル』の登録者数は410人(2月24日現在)と、「何かの間違いでは?」と思えるほど寂しい数字……。平野がYouTubeを始めたことを、ファンが知らないだけに違いない! ということで、小さいころから大のドラゴンズファンである記者が、本人を直撃した!
「YouTubeを始めたのは、動画撮影を担当してくれている方から誘われたのが、きっかけです。ただ、僕はアナログな人間なので、その手のことにまったく疎くて、ほぼほぼ丸投げでお願いしています。
ほかのプロ野球OBたちのYouTube? あんまり観たことないんだよね(笑)。チャンネル登録者数っていうのは、なんなの?」
かなりの “IT音痴” ぶりをみせる平野。さらに、驚きの発言が続く。
「パソコンでわかるのは、電源の入れ方くらい。現役引退後、ヒルマン監督のもとで日本ハムのコーチやってたときに、1人1台パソコンを与えられたんだけど、僕のパソコンは最後までずっと眠ってました。あれをしっかり使えていれば、あと1〜2年コーチをやれたかもしれない(笑)」
現役時代、気さくな人柄で後輩に慕われただけあって、饒舌に語る平野。中日時代の彼のテーマソングは「狼少年ケン」だったが、こんな裏話を聞かせてくれた。
「よく応援団に言われたのは、『テーマソングをかけるから、ちょっと打つのを待ってくれ』と。とにかく僕は初球から、どんどん打つほうやったから、音楽をかけようとすると打っちゃう。そうすると音楽がなかなか長く続かないから、『ちょっと長めに、ボールを見る打席も作ってくれませんか?』って言われたことがあるよ」
現役時代の趣味は、麻雀だったという。
「よく一緒に卓を囲んだのは、ドラゴンズでは(小松)辰雄、(都)裕次郎、大河原栄さん。西武時代は兄やん(松沼博久)、高山(郁夫)とか、なんかピッチャーが多かったな。野手だと、大洋から来た村岡(耕一)とかね。酒があまり強くなかったから、お酒を飲みに行くよりも、麻雀してるほうがよかったんだよね。
酒っていえば、中日時代に僕がよくツルんで遊んでた杉本(正)。スギはもう俺よりひどくて、名古屋で飲みに行っても、スギのキープしてるボトルの中はカルピスだったから。いかにもなっていうボトルなんだけど、中身はカルピスっていう(笑)。周りは飲めない人間ばっかりだったね。中尾(孝義)なんか、まったく飲めないし」
1980年代前半の中日は「野武士軍団」と呼ばれ、酒豪揃いのイメージだったが、そうでもなかったようだ。
「中尾は僕と歳が一緒で、宮崎の串間のキャンプでも一緒の部屋だったんですよ。2人で『今日は飲むぞ!』なんて言って、ビールの小瓶を半分ずつ分けるんだけど、それが飲み干せなくて、2人とも寝ちゃうっていう。27歳ぐらいのときかな」
平野にとっては中日最後のシーズンとなった、1987年。1対4の交換トレードという、プロ野球史上に残る「世紀のトレード」で移籍してきた落合博満との思い出も聞いた。
「落合さんはロッカーが隣同士だったから、いろんな話をさせてもらいました。落合さんが移籍してくる前は、ほんの数日間、野手では僕がいちばん年俸が上だったんだよね。『平野が一番』ってなった瞬間に、億の方が来られたっていう(苦笑)。
あと、落合さんはいつも俺のタバコを吸ってたからね。信子夫人に言われてたのか、家ではタバコ吸っちゃダメだったらしいから」
翌1988年、平野は西武にトレードされる。西武時代のチームメイト・清原和博とはどんなふうに接していたのだろうか?
「俺が33歳になるときだから、キヨは当時21歳かな。まだ若かったし、彼はどっちかというと、のほほんとしてたからね。
昔の西武球場のロッカールームって、入り組んだ作りで、僕とキヨのロッカーの間には太い柱があって、僕のロッカーからはキヨが見えなかったの。もちろんキヨに悪気はないんだろうけど、なかなか挨拶がないから、『あれ? 今日キヨいるのか?』って俺がでっかい声で言って、『おはようございます』ってキヨが挨拶するっていう。こっちは移籍1年めだったけど、あんまり関係なくやってたよね」
1番を打っていたこともあるが、おもに2番バッターとして、中日時代は田尾(安志)、西武時代は辻(発彦)と1・2番を組むことが多かった平野。バントの名手として鳴らした裏には、こんな事情もあった。
「田尾さんにしても辻にしても、そんなに走る1番じゃなかったから、よけいにバントが増えたんだよね。でも、田尾さんは『お前のバントは、ちゃんと転がしてくれるから』ってことで、すごいスタートがよくって。だから俺がバントして『あー、強すぎた!』って思っても、田尾さんはセーフになってくれてすごい助かった。
辻はね、右打ちとかうまいけど、あんまりバントは得意じゃなかった。彼がバントを失敗してエンドランで出塁したりすると、結局、俺にバントのサインが出るんだよね。だから、俺のバッティングの状態がいいときは、9番の田辺(徳雄)が塁に出たら、辻には『頼むからバントを決めてくれ』と思ってたもんね」
まだYouTubeで話していない、現役時代の秘話を披露してくれた平野。これだけエピソードを持っていれば、今後の登録者数増加も期待できるが……。
「観てくれてる方のコメントとか嬉しいし、全部自分の言葉で返信させてもらってます。まあ、僕のコメントをスタッフに打ち込んでもらってるんだけど(笑)。田尾さんとか、ほかの選手とのコラボ? やってくれるかな~?」