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『いだてん』金栗四三、日本初の駅伝にも出場していた/4月27日の話

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.04.27 08:37 最終更新日:2021.04.30 09:18

『いだてん』金栗四三、日本初の駅伝にも出場していた/4月27日の話

金栗四三

 

 1917年4月27日、日本初の駅伝となる「東海道駅伝徒歩競走」が開催された。「日本マラソンの父」と呼ばれ、大河ドラマ『いだてん』(NHK)モデルの一人である金栗四三も、この大会に出場していた。

 

 京都・三条大橋を出発点とし、ゴールは上野にある不忍池前と、約514kmの非常に長いコースが用意された。関東組と関西組の2つにチームが分かれ、金栗は関東組のアンカーを務める。結果、関西組に1時間24分と大きく差をつけ、大歓声のなか不忍池にゴールしたという。

 

 その後、正月の風物詩である「箱根駅伝」の創設にも尽力した金栗は、日本マラソン界の基礎を築いたといえる存在になった。しかしその背景には、金栗が世界で経験した大きな敗北があった。

 

 

 金栗の出身地である熊本県玉名市で、市役所の企画経営課担当の徳永愼二さんはこう語る。

 

「家から小学校まで、毎日、往復12kmを走るような環境で育った金栗さんは、東京高等師範学校(現・筑波大学)時代に、近代日本スポーツを育てた嘉納治五郎さんに出会い、本格的にマラソンの才能が花開いたそうです。

 

 1912年に開催されたストックホルムオリンピックでは、日本人初のランナーとして参加されました。ただ、この大会は猛暑に見舞われ、選手68人のうち34人がリタイアする厳しいレースとなりました。金栗さんも、日射病で棄権扱いになっています。

 

 当時は船とシベリア鉄道を乗り継ぎ、17日間に及ぶ過酷な長旅を経て現地入りしましたし、選手のサポート体制が十分に整っていなかったことも影響していたのでしょう。

 

 多大な悔しさを胸に日本に戻ってきた金栗さんは、自身の体力強化とともに、マラソン選手たちの育成にも力を入れ始めるんです」

 

ストックホルムから帰国した直後の金栗四三

 

 帰国した金栗は「一度にたくさんの選手を作るには、駅伝競走が最適だ」との考えから、駅伝創設を呼びかける。これに応じた早稲田大学、慶応大学、明治大学、東京高等師範学校の4校で、1920年に「四大専門学校対抗駅伝競走」が開催。これがのちに「箱根駅伝」と名前を変え、現在まで続いている。

 

 その後、2度のオリンピックを経験し、1924年のパリ大会後に現役を引退。故郷の玉名市に戻ってからも、マラソン大会や駅伝競走を開催するなど、マラソンの普及に努めた。

 

 徳永さんは、金栗の人柄についても明かしてくれた。

 

「実は私、金栗さんとは実家が隣だったんです。私の父が当時珍しいプロの競輪選手で、スポーツの話ができるということで、金栗さんと仲がよかったんです。子供の頃はずいぶんかわいがっていただきました。変な話、毎日会う普通のおじちゃんでしたよ(笑)。まさか大河のモデルになるとは思いもしませんでした。

 

 いつもニコニコして、えばったようなところがなくてね。金栗さんの娘さんともたまにお話させていただくんですが、『怒ったところや、夫婦ゲンカなんか見たことない』とおっしゃっていました。地元の運動会にもよく顔を出していて、子供たちがかけっこするところを楽しそうに見てらっしゃる姿を覚えています」

 

 徳永さんは、金栗にかけられた言葉で、今でも強く記憶に残っているものがあるという。

 

「金栗さんが考案された、『2回吸って2回吐く』という呼吸法を、私は直接習いまして。小学校のときに長距離大会があったんですが、ルートの途中に金栗先生の家があるんですよ。

 

 習った手前、どうにかいいところを見せたくて、そこまでは必死に走るんです。通過するまでは1位なんですけど、そこから失速して、結局たいした順位ではなくなってしまいました。

 

 家に帰って『負けちゃったよ』と報告したら、金栗先生は笑って『次に頑張ればいいんだ』と言ってくれたんですが、続けて『でも、何事も途中で投げ出すことだけはするな』とおっしゃったんです。

 

 継続することの大切さは、ことあるごとにおっしゃっていましたね」

 

 常に穏やかな金栗だったが、唯一家族にも語らない出来事があった。徳永さんは「ストックホルムオリンピックのレースについては、ご家族にも一度も話をされなかったようです。やはり、相当な歯がゆさがあったんじゃないでしょうか」と明かしてくれた。

 

 そんな金栗のもとに、1967年、一通の招待状が届く。スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されたのだ。

 

 現地に到着した金栗は、ゆっくりと競技場を走り、ゴールテープを切った。

 

ストックホルムでゴールテープを切る金栗四三

 

 その瞬間、「日本の金栗選手、ただ今ゴールイン。記録は通算54年と8カ月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了といたします」と場内アナウンスが流れたという。

 

 当時75歳を迎えていた金栗は、「長い道のりでした。その間に妻をめとり、子供6人と孫10人ができました」と語ったと伝えられている。

 

※写真提供:玉名市

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