1995年5月2日、ドジャース・野茂英雄がメジャーリーグに初登板した。
今はなきキャンドルスティックパークでおこなわれた対ジャイアンツ戦。日本球界での実績を引っさげて、近鉄バファローズ(当時)からロサンゼルス・ドジャースに移籍した野茂は、31年ぶり2人目となる日本人メジャーリーガーとしてデビューし、日米双方で大きな注目を集める。
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デビュー戦の結果は、5回1安打無失点にまとめあげたものの勝ち負けはつかなかった。
しかし、奪三振は「7」をマークし、その実力を見せつける。日本人メジャーリーガーの “パイオニア” となった野茂のメジャー人生は、この日からはじまった。
野茂がメジャーリーグや日本人選手たちに与えた影響は、計り知れない。メジャーリーグ記者の笹田幸嗣さんが本誌の取材に応じてくれた。
「当時のメジャーリーグでは、日本の選手がどれだけできるのか、まったく未知の世界でした。そのなかで野茂さんは、ドジャースで初勝利をあげる前から『僕は結果を出さなければいけない』『僕ができなかったら日本人選手が “ダメ” の烙印を押される』と語っていたのです」
そして、野茂が活躍を続けると同時に、日本球界とメジャーリーグの距離は縮まっていった。
「メジャーでは当時から、日本球界でプレーする一部の日本人選手への評価というものはありました。
しかし、当時はまだ日本球界からメジャーリーグへの移籍はあまり現実的なものではなかった。
そのなかで、野茂さんは自ら日本球界をやめて、メジャーに挑戦し、結果を残しました。
言うならば、野茂さんは “逆黒船” ですよね。それによって、(日本球界からのメジャー移籍という)道標が作られました。
そして、野茂さんはメジャーで活躍を続け、『日本のトッププロをアメリカに勧誘できるんじゃないか』という考えがメジャーで急速に広まったのです」(前出・笹田さん)
昨今、多くの日本人選手がメジャーで活躍している。笹田さんは、その背景には野茂が切り拓いてきた道があると語る。
「(日本人メジャーリーガーたちの誕生は)100%野茂さんのおかげです。野茂さんはメジャーに挑戦し、形をつくり、結果に変えて、道を切り拓いたからこそ『次』が生まれたのです。
これまで活躍されてきた多くの日本人メジャーリーガーのみなさんは、野茂さんが切り拓いた道であることを十分に理解していると思います」(同)
その後、7球団を渡り歩きながら12年もの間、メジャーリーグでプレーした野茂。2度の最多奪三振を記録し、1996年と2001年には2度のノーヒット・ノーランを達成。
メジャー通算123勝をマークした “パイオニア” の背中を、いまも多くの日本人選手が追いかけている。