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柔道を完成させた嘉納治五郎、東京オリンピックの招致にも成功する/5月4日の話
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.05.04 07:15 最終更新日:2021.05.04 07:15
1938年5月4日、「日本体育の父」と呼ばれる嘉納治五郎が亡くなった。現在の柔道を創立したほか、オリンピック招致にも成功するなど、日本のスポーツ界の発展に大きく関わった。
嘉納は一体どのような人物だったのか。歴史学者の濱田浩一郎さんがこう語る。
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「『柔道の父』とも言われる嘉納ですが、少年時代から成績はよかったものの、体が弱く、先輩たちにはよくいじめられたようです。それもあって、人一倍『強くなりたい』という思いが大きくなったとき、柔術に出会います。
柔術の師範のもとで稽古を重ね、嘉納はどんどん力をつけていきます。
19歳の頃には、日本を訪問したアメリカのグラント大統領の前で柔術を披露したほどの腕前となっていました。その後、さまざまな流派の柔術を学び、各流派の優れた技などを集めて現在の『柔道』を作り上げました。1882年、自分の道場である『講道館』を設立しています」
講道館設立後は、多くの人々へ指導をおこない、海外にも柔道を普及させるべく努めた。また、「講道館」設立と同時に、学習院で政治学や経済学の講師を始めている。
「嘉納は、30代以降、教育現場での活躍が目立ちます。熊本にある第五高等中学校(現・熊本大学)や、東京高等師範学校(現・筑波大学)などの校長に就任し、地方でも柔道を広めるべく動いていました。のちに東洋大学になる『哲学館』でも講師を務めています。
30代直前にヨーロッパへ外遊した際、ベルリン滞在中に宰相ビスマルクの失脚を目の当たりにした嘉納は、政治家も地位を失うと活躍できなくなることから、『人間と生まれて偉大な仕事をするためには、なんとしても教育だと思うようになった』という言葉を残しており、教育の重要性を常に意識していました」(濱田さん)
柔道の伝道者として、海外でも嘉納の名は有名になる。1909年には日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となり、1912年に開催されたストックホルムオリンピックには、日本の選手たちを初めて参加させた。本大会には、嘉納が才能を見出したマラソンの金栗四三選手らが出場しており、自身も団長として参加した。
「徐々に国内でオリンピックへの興味・関心が高まり、晩年の嘉納はオリンピックを日本で開催すべく奔走します。その甲斐あって、1936年のIOC総会で、1940年の東京オリンピック開催が決定するに至りました。
開催が決まると、嘉納は『東京日日新聞』のインタビューに『単にスポーツ競技だけの大会ではない、わがスポーツ界の威力を発揮し、わが国の文化や国民精神を各国の人々に理解させ、国民精神の作興にも資せしめねばならない』(1936年11月14日発行)とコメントしています。
その2年後、カイロでおこなわれたIOC総会から帰国する船旅で、嘉納は肺炎により息を引き取ります。遺体は、オリンピック旗に包まれた姿で、横浜港から降ろされたということです」(濱田さん)
嘉納が亡くなった影響は大きく、日中戦争が激化するなか、1940年の東京オリンピックは、ついに返上することになる。