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猪木vs.モハメド・アリ、日本プロレス界を変えた伝説の15ラウンド/6月26日の話
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.06.26 07:22 最終更新日:2021.06.26 07:22
1976年6月26日、プロレスラー・アントニオ猪木が、当時の世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリと対決した。
「プロレス」と「ボクシング」という、異質な競技同士の対決。そして、猪木とアリの双方における絶大なネームバリューが入り混じり、多くの格闘技ファンが固唾を飲んで見守った。
アントニオ猪木に詳しいノンフィクション作家・柳澤健氏は、猪木がアリと「世紀の一戦」を迎える原点に、プロレスラー・ジャイアント馬場の存在があったと話す。1960年代、アメリカでそれぞれプロレス活動をしていた猪木と馬場。だが、2人の間には、大きな差があった。
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「馬場さんも猪木さんも、アメリカでプロレスをしていました。しかし、当時の猪木さんがしていたのは、お金の稼げない二流のプロレス。馬場さんがそのころ稼いでいた金額の30分の1もなかったと思います。
なぜなら、馬場さんと猪木さんでは『体格』が違ったからです。日本人レスラーのなかでは猪木さんは大きい。しかし、アメリカのプロレスラーのなかに入ってしまうと、むしろ小柄なのです。
その点、馬場さんは2メートルを超える身長と技で人気を博していました。要するに、アメリカにおける馬場さんと猪木さんは、まったく格の違うレスラーだったのです」
その後、日本へ戻った2人。猪木は1972年に「新日本プロレス」を、馬場も同年に「全日本プロレス」を旗揚げする。
日本テレビをバックに持ち、豊富な資金と人脈で多くの一流レスラーをアメリカから呼び込んだ馬場。猪木は、馬場に対する対抗心と、プロレスに対する熱い想いを胸に、さまざまな手を打つ。
1973年にはアメリカで活躍を続けたタイガー・ジェット・シンを日本に招待し、熱い名勝負を繰り広げた。1974年には国際プロレスの中心選手だったストロング小林との「日本人エース対決」で、プロレス界を盛り上げた。
順調に人気を高めた猪木が、次に目をつけたのがボクシングだった。当時、世界ヘビー級チャンピオンとして脚光を浴びていたモハメド・アリに猪木は反応。
しかし、猪木の闘魂は相反して、当初のアリには別の思惑があった。
「アメリカにおけるボクシングとプロレスは、明確に異なるものでした。ボクシングこそが、“本物の格闘技” であって、プロレスは “インチキなエンターテイメント” というのがアメリカの常識でした。
なので、当時のアメリカの人たちは『なんでアリは日本のプロレスラーと試合をするんだ?』と思っていたようです。
1976年のアリは、現役の世界ヘビー級チャンピオンでしたが、かなり衰えていたようです。
アリとしては、楽に賞金を稼げればいいと考えていたのでしょう。しかも、ボクシングではなくプロレスで稼ぐことができたら、そんな楽なことはない、と。
だから、アリとしては “真剣勝負” をしたいなんて、これっぽっちも思っていなかった。
それなりの台本を作って、引き分けを演じ、『俺と引き分けたなら、日本のプロレスラーも大喜びするだろうし、俺も大金を稼げていいだろう』というのが、基本的なアリの考え方だったのです。
ここで、普通だったら結末の決まったショーをするのですが、猪木さんはそれを嫌い、アリとの打ち合わせも拒否しました。猪木さんは真剣勝負を求めたのです」(前出・柳澤氏)
1976年6月26日、日本武道館でついに実現した猪木対アリの試合。
多くのプロレス技が禁じられ、不利な立場となった猪木は、アリのパンチを避ける形でスライディングの姿勢をとり、アリの脚部に蹴りを入れ続けた。
この状態が15ラウンドで続き、結果として、世紀の一戦は「引き分け」という形で幕を閉じた。試合内容から、ファンやメディアから不満の声が上がるが、この一戦が日本プロレス界に与えた影響について柳澤氏は次のように語る。
「猪木さんは、その頃から『プロレスこそ世界最強の格闘技』と言い出すんです。とにかく、世界最強の男と引き分けた、と。その言葉にプロレスファンは痺れました。
要するに、アントニオ猪木対モハメド・アリの試合は、『プロレス=最高の格闘技』という《ファンタジー》をつくりだすことに成功したんです。
その結果として、UWFが設立され、PRIDEが誕生するなど、“真剣な総合格闘技” が普及しました。この点で、日本のプロレス史に残る大きな試合となったのです」
あくなき向上心を持ちながら、闘い続けた猪木。その闘魂は、今も脈々と日本プロレス界に受け継がれているのだ。
写真・dpa/時事通信