スポーツ
ロッテが17連敗「首都高の衝突事故」から始まった “七夕の悲劇”/7月7日の話
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.07.07 06:00 最終更新日:2021.07.07 16:20
1998年7月7日、千葉ロッテマリーンズがプロ野球ワースト記録を更新する「17連敗」を喫した。
グリーンスタジアム神戸(当時)でおこなわれた対オリックス戦。ロッテの先発・黒木知宏は連敗脱出に向けて、脱水症状を起こしながらも力投。
【関連記事:ロッテお家騒動の陰で鍵握る創業者の「3人の妻」】
2点リードのまま迎えた9回2アウト、攻めの投球で打者を追い込むも、同点となるツーランホームランを被弾。その後、12回裏にサヨナラ満塁ホームランを浴び、力尽きた。その翌日も敗れたロッテは連敗を「18」まで伸ばす。
この劇的な結末によって生まれた不名誉な記録は、“七夕の悲劇” として、いまでもロッテファンに語り継がれる。
大連敗の1敗目となった6月13日の対オリックス戦。この試合で先発を任されたのは、当時の勝ち頭だった小宮山悟(現・早稲田大学野球部監督)だ。
実は、この試合の裏側には、6月10日に小宮山が起こした「衝突事故」があった。
「その日、首都高の浦安の出口付近で、小宮山さんの運転する車が、雨のなかで壁に衝突してしまいました。この事故によるスライド登板がなければ、『18連敗』という史上稀に見る悪循環は生まれていなかった可能性もあります」
こう語るのは、『18連敗の真実 なぜ千葉ロッテマリーンズは負け続けたのか?』の著者である、フリーライターの萩原晴一郎氏だ。
事故による影響を考慮し、小宮山は6月11日に予定していた先発登板を回避。2日後の6月13日、対オリックス戦にスライド登板を果たすも相手打線に噛み付かれ、敗戦投手となった。
「この頃の先発投手は、7回や8回を投げきることは当たり前でした。5回5失点とはいえ、いつもならもっと投げ続けることができた、とご本人もおっしゃられているんです。7回くらいまでは投げられたのではないか、と。ただ、小宮山さんが起こした事故のこともあって、近藤昭仁監督(当時)も配慮し、早めに降ろしたと思うんですよ。
小宮山さんも当時の試合を振り返り、 “ふわふわした感じ” だったとおっしゃっています。これには、事故の影響だけではなく、スライド登板による調整のズレがあったと思うんです。
1日ならともかく、2日間のスライドは大きいものです。プロのピッチャーは、その日に合わせてピークを持っていくわけじゃないですか。それが突然2日もずれたのは、相当大きかったと思います」(前出・萩原氏)
18連敗の原因として、当時のロッテにおける「ブルペン事情」が頻繁にあげられる。不安定なリリーフ陣の打開策として、近藤監督は、エース・黒木を抑え投手として起用した。黒木の配置転換と近藤監督の考えについて、萩原氏は当時のチーム事情を踏まえながら、次のように分析する。
「あの頃は、成本さん(成本年秀)は手術の影響で前年からずっと投げることができず、河本さん(河本育之)もシーズン序盤から二軍で調整が続いていました。つまり、左右のダブルストッパーとして期待されていた2人が不在だったのです。
それで、当時のメンバーを見渡すと、ストレートがそこそこ速く、三振も取れる球を持っているのは黒木しかいないという結論になったと思うんですよね。
また、1996年のオフには、伊良部さん(伊良部秀輝)がヤンキースへ、エリック・ヒルマンも巨人へ移籍しており、勝ち頭もいなくなっていた。先発も、抑えもいない。だけど、フロントは動いてくれない。
だから、当時のメディアからは、近藤監督による黒木さんの抑え起用は『フロントに対する当てつけ人事ではないか』と言われたこともあるんです。
でも、近藤監督はそんなことをする人じゃないと思います。僕も当時の投手陣を見てみると、抑えを任せられるのは黒木くらいだな、と思う。それくらい、あの頃のロッテは駒が不足していた」(同)
しかし「ストッパー黒木」は、当時のチーム事情を映し出す結果となった。6月20日、21日の対日ハム戦、6月26日の対近鉄戦の三度の登板機会すべてでリリーフに失敗している。
「黒木も、突然抑えを任されて、戸惑いはあったと思うんです。ただ、男気がある人だから、監督から任されて、その気になったのだと思います。それで、力みすぎて空回りしてしまった部分もあるかもしれません。
中継ぎとかストッパーは、負けても次の試合でまた投げないといけない。その都度、気持ちを切り替えて、次の試合に臨むことが大事なんです。もともと黒木さんは典型的な先発型の人間なので、そこに対応しきれなかった部分があるかと思います」
「18連敗」を刻んだ翌日。ロッテの長い悪夢はついに終わりを迎える。7月9日の対オリックス戦、先発した小宮山が6失点で完投し、チームを勝利に導いた。
萩原氏は「止めるべく人が止めた」と、この勝利を振り返る。
「エースであり、キャプテンであり、精神的支柱でもある。つまり、当時のロッテにとって、小宮山さんはなくてはならない存在でした。
このとき、小宮山さんはプロ9年目の32歳。プロ野球選手として、いちばん脂が乗ってた時期だと思います。18連敗の最中も、投げるたびに『俺がこの連敗を止めてやる』って思って投げましたが、それがうまくいかなくて、という感じでした。
選手たちにとっても、頼りになる兄貴的な存在でしたし、困ったときの小宮山さんみたいな存在だったと思うんですよね。(連敗がストップした)オリックス戦も、みんなすがるような思いだったのはないでしょうか」(同)
前代未聞の「18連敗」を乗り越えたロッテ。この記録が塗り替えられる日は来るだろうか。
写真・朝日新聞