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力道山、ヤクザに刺されても「倒れないぞ!」寂しがり屋で見栄っ張り/7月30日の話
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.07.30 11:00 最終更新日:2021.07.30 11:11
1953年(昭和28年)7月30日、「日本プロレス界の父」と称される力道山を中心に、日本初のプロレス団体である「日本プロレスリング協会」が設立された。ほどなくして力道山は、「総理大臣の名前は知らなくても、力道山の名前を知らない者はいない」と言わしめるほどの人気を誇るようになる。
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日本のプロレスは、戦前にもわずかな活動の記録が残っているが、興行という形でプロレスが広まっていくのは、力道山の活躍以降だ。
戦前から力士として活躍していた力道山は、1950年、突然髷を切って廃業。プロレスラーとして日本プロレスを旗揚げしたのは、ちょうどテレビ放送が始まったのと同時期だった。街のあちこちに登場した街頭テレビのなかで、外国人レスラーたちを空手チョップで次々に倒していく力道山の姿は、人々を熱狂させた。
実力とカリスマ性を備えていたものの、その性格は破天荒で、新聞の見出しには「力道山また暴れる」などといった見出しがしばしば踊ったという。だが、身近な人には、また少し違った顔を見せていたようだ。力道山と幼少期から親交があったという、元中日ドラゴンズの森徹さん(故人)は、2006年の本誌取材にこう語っている。
「おふくろが北京で大きな料亭『万里』をやっていたころ、満州に相撲巡業で来ていたリキさんが寄ってくれてたんだ。リキさんが16~17歳のころかな。
おふくろは自分の息子みたいにかわいがった。浴衣を新調してやったり、夜にはご馳走を食べさせたり。僕にとっては、肩車をしてくれる優しいお兄ちゃんだったね。終戦後も親交はあったけど、頻繁に会うようになったのは、リキさんがレスラーとして成功してからだね。兄貴、徹と呼び合う、兄弟のような関係だったよ。
根は寂しがり屋で、フランク永井の『俺は淋しいんだ』をよく口ずさんでいたよ。リキさんは酒癖が悪いとか言われていたけど、計算して飲んでいたね。
僕がホームラン王争いをしていたとき、相手投手がボール球しか投げてこない時期があった。イライラする僕を飲みに誘ってくれたんだ。でも、いくら飲んでも僕の気分が晴れない。つい声を荒らげたら、リキさんは僕の肩を抱いて静かに店を出てくれたよ。
そういえば、六本木でリキさんが見知らぬ野郎から『芸者ボーイ』と野次られて、相手の首根っこを掴まえて倒したこともあった。このときは僕が仲裁役で、リキさんを店の外に出そうとしたら、階段から2人とも転げ落ちてね。翌日の夕刊には『森と力道山が大喧嘩』なんて記事が載った(笑)。こっちは平和に飲んでいるのに、からまれることも多かったのは事実だね」
1963年、39歳という若さで亡くなったときも、力道山は夜の街にいた。赤坂のナイトクラブで暴力団員と口論の末、左わき腹を刺されたのだ。表ざたにならないよう、当時妊娠中だった敬子夫人が通う病院で手術したが、まもなく腸閉塞を起こして帰らぬ人となった。
「リキさんは最後まで見栄を張った。『刺し傷なんかで力道山は倒れないぞ』とね。でも、ダメだった。お別れのとき、おふくろがリキさんに死に化粧して僕も体に触ったよ。温かくてね、まるで生きているようだったなぁ」(森さん)
写真・朝日新聞