第73代横綱・照ノ富士春雄(29)。奇跡の復活を成し遂げた男の素顔を、周囲で支え続けた男たちが語った。
「最初の何年かは、お互いにあまり好きじゃなかったんですよ」と語るのは、2019年まで付け人を務めた中板秀二さん(元幕下・駿馬)だ。
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2010年、中板さんのいた間垣部屋に入門してきたのが、当時19歳だったガントルガ・ガンエルデネだった。
「当時から体は大きかったんですが、土俵で当たってみると自分のほうが強いんですよ。いくら高校(鳥取城北)で活躍したとはいえ、プロは当たりが違いますから。正直、関取までいけるかどうかなと思いましたね」(中板さん)
ところが、その第一印象は、すぐに覆される。
「稽古を1週間、2週間と続けていくうちに、自分の力が通じなくなってきて、半年ぐらいすると歯が立たない。いろんなことを吸収していく能力がすごいんです」(中板さん)
順調に番付を上げていく弟弟子に、兄弟子としてやらなければいけないことがあった。
「入門時から、相撲の世界のしきたりなどを教えてきました。関取に上がるだろうと思ってからは、特にガミガミ言うようになりました。関取がこんなことも知らないのかと、恥ずかしい目に遭わせるわけにはいきませんから。
最初は素直に聞いていたんですが、そのうち嫌がるようになって。それでも口やかましく言ってましたから嫌だったでしょうね(笑)」(中板さん)
当時を知る人物がもう一人。同じく間垣部屋に在籍していた呼び出しの照矢だ。
「私もけっこう口うるさく注意しました。だから仲はあまりよくなかった。でも、あのまま関取になったら困るのは本人ですから。横綱は日本語を話せたので、日本語でコミュニケーションを取れたことは大きかったです」(照矢)
当時の間垣部屋は危機に瀕していた。親方が2007年に脳出血で倒れ、十分に指導ができない。部屋の経営状況も悪化し、照ノ富士の入門直後には唯一いた関取が引退。所属力士は減る一方だった。
「人が少なくて、私がちゃんこを作ることもありました。しかし、だからこそ家族的な関係が生まれたと思います。力士と呼び出しって、普通はそんなに深い関係にはなりませんから。そんな部屋から大きな部屋に移ったので、大変だったと思います」(照矢)
2013年3月、間垣部屋が閉鎖になり、照ノ富士らは伊勢ケ濱部屋に移籍する。
「いきなり大所帯、しかも横綱(日馬富士)がいる部屋に移って、自分も正直、恐怖でしたし、照ノ富士関もそうだったと思います。
でも、移籍できてよかったと思います。いろんなタイプの関取が、厳しく稽古をつけてくれる。それまでは、自分から積極的に稽古をするタイプではなかったんですが、怖い関取衆がいて稽古をしないわけにはいかないですから」(中板さん)
部屋の移籍から二場所で関取に昇進。四股名を若三勝から照ノ富士に改め、中板さんが付け人となった。新十両の場所でもいきなり優勝を果たし、順調に番付を上げていった。それとともに、兄弟子との関係にも変化が表われる。
「あるとき、私が化粧まわしのつけ方を間違えてしまったんです。でも、横綱はほかの部屋の力士から指摘されると、『駿馬さんが間違うわけないだろ』と言ったそうなんです。それを聞いたとき、私のことを信頼してくれているんだと、あらためて気づかされましたね」(中板さん)
照矢も同じような経験をしている。
「部屋を移ってしばらくして、『駿馬さんと大督さん(照矢の名前)がこれまで厳しかったのは、自分のために言ってくれていたんだとわかりました。ありがとうございます』って、頭を下げられました。あのときのことは、今も鮮明に覚えています」(照矢)
中板さんは付け人として、身の回りの世話や取組への助言など、照矢は顔を合わせれば、たわいのない会話で気を紛らすなど、精神面を支えてきた。間垣部屋時代からの固い絆と厚い信頼で結ばれた “家族以上” の存在なのだ。