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1500万円を借金して練習場を…平野歩夢を支援した篤志家が金メダルに歓喜「今思えば、大谷翔平選手と同じ努力を」
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2022.02.19 08:00 最終更新日:2022.02.19 15:02
「難度の高い4回転を3つ入れたルーティンをしていたので、『おかしいな』とは思った。イライラというか、怒りが収まらないまま3本目を迎えたけれど、怒りとともに集中できていた」
2月11日におこなわれた男子ハーフパイプ決勝、平野歩夢(23)の2回めの演技は意外な低評価で2位となり、世界中が得点の低さに「?」をつけた。
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冒頭の言葉どおり、平野は怒りを闘志に変え、3回めは同じルーティンをさらに高いエアと4回転の大技3つを決め、史上最高難度で逆転。冬季五輪2大会連続で銀メダルを獲得した平野は、ついに念願の金にたどり着いた。
そんな平野がスノーボードを始めたのは4歳のとき。3歳上の長兄・英樹の影響によるものだった。平野が小学校時代に通った福島県の会津高原南郷スキー場支配人の星秀則さん(60)が振り返る。
「平野選手がウチのスキー場に来たのは、たしか彼が小学校3年生のころだったと思います。スキー場の関係者から『すごい小学生がハーフパイプの練習をしているから、見に来て』と言われて行ったんです。
第一印象は『小3にしては小さいな、こんな小さい子がやっても大丈夫なのかな?』ということでした。なにしろ大人と混じっていると、姿が見えなくなるほどでしたから(笑)」
ところが、その滑りを見ると……。
「エッ!? と驚きましたね。誰よりも小さいのに、誰よりも高く、クルクルと飛ぶんですよ。大人よりもね。当時は小学生がパイプに入ることも珍しかったので、とにかく驚きました。文句なしでうまくてね。
でも、将来、金メダリストになるなんてことは当時、想像もできませんでした。いま思うと、金メダリストになる子は、幼少期から何か光るものを持っているんだな、と感じます」
そして、練習の舞台となった同スキー場のハーフパイプを作り上げたのが、建設会社を経営していた酒井喜憲さん(75)だった。酒井さんはいまから25年ほど前、自腹でパワーショベルを2機(計1500万円相当)購入してハーフパイプを作り上げた。酒井さんが語る。
「歩夢がまだ生まれていない25年前といえば、ハーフパイプは山形県の横根スキー場に1つあるくらいでした。でも、会津高原南郷スキー場にも子供のスノーボーダーはいたんです。ハーフパイプがないから、みんな手作りで飛んでいましたよ。
で、彼らに話を聞くと、口をそろえて『将来は五輪に出て金メダルを獲りたい』と。これは何とかしてあげなければいけないと思い、自分で作る決心をしたわけです。横根スキー場にも見学に行き、それを手本にして関係者からも作り方を教えてもらいました」
借金をしてまでパワーショベルを購入した。すべては子供たちの夢を叶えてあげるためだった。
そして平野は小3のとき、同スキー場を訪れた。酒井さんは平野の一生懸命な姿に胸を打たれ、シーズン中は、兄・英樹とともに平野を自宅に迎え入れ、スキー場への送迎も請け負った。
「歩夢はものすごく根性のある子供だった。負けん気も強かった。スキー場ですから、吹雪など悪天候の日もあります。でも歩夢は天候なんて関係なく、どんな日も自分で決めた練習をこなしていました。毎日ですよ。こんな小学生は、なかなかいないでしょう。小5のときには、すでにプロになることを目標に定め、努力し続けていた。
メジャーリーグで大谷翔平選手が大活躍していますが、彼も高校時代に目標達成シートを作って励んだと聞いています。やはり幼いころから目標を設定して、それに向けてコツコツ取り組んだからこそ世界のトップになれる。大谷選手と歩夢には共通する部分があると感じています」
平野は北京五輪閉幕前に帰国したが、酒井さんはまだ再会を果たせていないという。
酒井さんは「テレビに出演したり、挨拶回りもたくさんあると思う。落ち着いてからでいいですよ、会うのは。なんと言う? 声のかけようがないですよね、すごすぎて(笑)。もう、本当におめでとう、そしてありがとうと言えるくらいですかね」と声を震わせた。
かつて平野はスノードボードについて「難易度が上がってきて、技も限界に来ている。それこそ命懸けで飛んでいる状態なんです」と語ったことがあった。そして酒井さんのモットーも「選手が命懸けで飛ぶんだから、ハーフパイプ作りも命懸けでやる」こと。
2人の思いが重なった金メダルでもあった。
写真提供:会津高原南郷スキー場
( SmartFLASH )