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野球少年だった「高安」角界という言葉を知らなかった
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2017.06.07 11:00 最終更新日:2017.06.07 11:00
少年のあだ名は「マル」。由来は西武、巨人に在籍した野球選手マルティネスに似ていたから。
そんな少年時代の高安が所属していた野球チームで監督を務めていた渡辺博さん(56)は「素直でいい子」と語る。
「小学4年でリトルリーグに入ってきて、そのころのポジションはライト。打率は1割6分ぐらいかな(笑)。当時から体はガッチリだけど、野球をやるにはちょっと太っていたので、『三度の飯はいくら食べてもいい。そのかわり、炭酸飲料や糖分のあるもの、おやつは控えること』と、高安に伝えました。それ以来、私が見ていなくても、絶対に口にしなかった。それぐらい生真面目な子だったんです」
言ったことは素直に聞く高安の姿で、忘れられないエピソードがあるという。
「小学6年の夏、彼がデッドボールを受けて、鼻を骨折したんです。それから、インコースの球が怖くて打てなくなった。
でも、秋に9番で出した試合で高安がバッターボックスに立ったとき、『相手のピッチャーはコントロールがいい。真ん中高めにきたら思い切り振れ』と指示したんです。見事に真ん中高めをホームランにしました」
中学まで野球を続けた高安が、角界に進んだきっかけは、中学3年時の担任・浅倉慈男先生(44)の一言だった。
「進路面談という形ではなかったんですが、学年主任の先生と2人で『角界という道もあるよ』と、話したんです。そのとき、彼は『角界ってなんですか?』って(笑)。でも、家に帰ってからその話をすると、お父さんがすぐに鳴戸部屋へ連れて行ったようで、週明けには『先生、僕決めました』と。
あまりに早い決断で驚きましたが、相撲で社会人として成長できれば……と、いう思いで送り出しました」
こうして鳴戸部屋に入門。卒業後の印象的な出来事を浅倉先生はこう話す。
「半年たったころ、部屋が厳しいと言って、何度も家に逃げ帰ってきました。お父さんから相談を受けて、入門して卒業式に出席できなかった高安の『一人だけの卒業式』をやって、励ましてあげたんです。そのときは納得した様子で戻って行ったんですが、その後も何度も逃げ帰ってきて、大変だったみたいです」
その後、父親が体調を崩したのを機に気持ちが改まったのか、“逃亡”はなくなった。三段目から幕下に上がった2008年、浅倉先生が部屋を訪れると、成長した教え子の姿があった。
故郷の恩師たちは、高安は「人に引っ張られていくタイプ」と口を揃える。兄弟子・稀勢の里の背中を追い、お互いに切磋琢磨して力をつけてきたのだ。
(週刊FLASH 2017年5月30日号)