村田さんが引退後のライフワークとして取り組んだのが「離島」での活動だった。交流機会の少ない全国の離島の中学生を対象とした「離島甲子園」を提唱。2008年以降、毎年おこなわれている(2020年、21年は新型コロナのため不開催)。
インタビューではそのきっかけを語っている。
「きっかけは新潟の粟島というところへ行ったことだった。村長さんから『ぜひ子供たちに会わせたいんです』と熱心に誘われてね。小さな島で、人口が425人。そのうち子供は15人しかいないんだよ。野球を見たことは、と聞くと『テレビで見たことしかない』って。
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球の投げ方、受け方いろいろ教えたんだけど、そこで『自分のできることはこういうことじゃないか』と思った。子供たちに野球の楽しさを知ってもらうのが、自分をこれまで支えてくれた人たち、社会への恩返しになるんじゃないかと」
村田さんは、子供が相手でも決して手を抜くことはなかった。
「子供たちの目を見ているとわかるんだ。ホンモノを見た、ホンモノを感じたという目の輝きがね。何だって同じじゃないかな。口だけでいくら説明したってだめなことっていっぱいあるでしょう。だから子供たちにはホンモノを見せてやらなきゃいけないんだよ。
最初は挨拶もできない子供が、僕が速い球をビシィッと投げるのを見たら、ガラリと変わるんだよ(笑)。離島の子供たちにだって、そういうホンモノを見せてあげないと野球の楽しさが伝わらないじゃない」
このときすでに55歳とはいえ、140キロを超える速球を投げていた村田さんに、現役復帰の可能性を聞くと、「なに言ってるの。やるわけないじゃない。絶対にないね」と即答した。
じつは、日本ハムが2004年に本拠地を北海道に移すとき、村田さんに現役復帰を打診してはどうかという話もあった。また、2003年には、古巣であるロッテの監督就任要請も。
「バレンタイン(監督)がだめなら、という話だった。だから『そんな仮の話をするな。失礼じゃないか』と言ったよ。それに今は離島のこともやっているしね」
サインを求められると、いつも「人生先発完投」と書いた。文字の一画一画をていねいに。
「当たり前じゃないか。自分に言い聞かせている言葉だから、そんないい加減に書けるわけがないよ。『人生先発完投』とはつまりね、自分の人生が終わるとき、これでよかったんだと、そう思える自分でいたいんだ」
そう語っていた村田さんは、72年の人生を完投した。
( SmartFLASH )