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さらば「テキサス・ブロンコ」テリー・ファンクさんの死去にあふれる悲しみの声…『キン肉マン』テリーマンのモデル

スポーツ 投稿日:2023.08.24 16:52FLASH編集部

さらば「テキサス・ブロンコ」テリー・ファンクさんの死去にあふれる悲しみの声…『キン肉マン』テリーマンのモデル

テリー・ファンク (左)とドリー・ファンク・ジュニア(写真:木村盛綱/アフロ)

 

「テキサス・ブロンコ」「テキサスの荒馬」として、日本でも絶大な人気を誇ったプロレスラー、テリー・ファンクさんが亡くなったことが、8月24日、わかった。テリーさんは、現地時間23日、故郷のテキサス州アマリロで逝去したという。享年79。

 

「テリー・ファンクは、1970年、『日本プロレス』に初来日。1972年からは、ジャイアント馬場さんが旗揚げした『全日本プロレス』に参戦し、お兄さんのドリー・ファンク・ジュニアとの兄弟タッグ『ザ・ファンクス』としても活躍しました。

 

 

 いまでも伝説の一戦として語られるのが、1977年12月15日に蔵前国技館でおこなわれた『世界オープンタッグ選手権』最終戦でのザ・ファンクスvs.アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークの死闘です。

 

 ブッチャーがテリーの右腕に幾度もフォークを突き刺し、それを必死に耐えながら立ち向かっていくテリーの勇姿に、ファンは感情を揺さぶられ、その後の日本でのテリー人気を不動のものにしました。

 

 また、ファンクスの入場テーマ『スピニング・トーホールド』は、ファンの間で不朽の名曲とされています。

 

 ちなみに、1979年に少年ジャンプで連載が始まった『キン肉マン』に登場する人気キャラクター、テリーマンは、言わずもがなテリー・ファンクがモデルです」(スポーツ紙ライター)

 

 1980年代前半まで全日本プロレスのトップ外国人として活躍したテリーさんは、1983年8月31日、全日本プロレスの蔵前国技館大会で一度は引退したものの、翌年8月に現役復帰。

 

 その後、WWF(WWE)と契約し、アメリカで活動。1990年代にはハードコア路線に身を投じ、さまざまな団体に参戦。1993年5月5日には、FMWの川崎球場大会で、大仁田厚と電流爆破マッチもおこなった。

 

 2014年12月11日、東京愚連隊の後楽園ホール大会でミル・マスカラス、船木誠勝とのタッグでNOSAWA論外、藤原喜明、カズ・ハヤシと対戦した一戦が、日本での最後の試合となった。

 

 日本のファンからも愛されたレジェンドの訃報に、多くのプロレスラーたちから一斉に悲しみの声があがった。

 

 2023年2月に現役を引退した武藤敬司は、《テリー・ファンクさんがお亡くなりになった。1989年頃、WCWでグレート・ムタのタッグパートナーとして、全米を一緒に巡業でドライブしたり、アマリロの家に招いてもらったり、懐かしい思い出がたくさんある。心からご冥福をお祈りいたします》と追悼。

 

 新日本プロレスの永田裕志は、《テリーファンクさんがお亡くなりになられました。子供の頃から私が全日本プロレス中継を欠かさず観ていたのはテリーファンクさんの大ファンだったからでした。テリーファンクさんのご冥福をお祈りいたします。合掌》とコメント。

 

 CyberFight代表取締役でDDTの高木三四郎は、《マイヒーローでした。何度も何度も立ち上がるテリー・ファンクさんの勇姿に勇気づけられてました。私のプロレスの原点です。ご冥福をお祈りします》と謹んだ。

 

 リングを降りれば、ファンにも気さくで、いつもニコニコしていた印象が強いテリーさん。また1人、ファンに愛されたプロレス界のレジェンドが逝ってしまった。

( SmartFLASH )

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