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井上貴子“プロレス業界初”オールヌードの過去…撮影中「これだけは無理!」悶絶したポーズを明かす

スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2023.09.26 06:00 最終更新日:2023.09.26 06:00

井上貴子“プロレス業界初”オールヌードの過去…撮影中「これだけは無理!」悶絶したポーズを明かす

35周年イベントTシャツのモデルは愛犬の紅緒(べにお・写真右)と柊音(ひおん)

 

“元祖アイドルレスラー”として女子プロレス界で活躍してきた井上貴子(LLPW-X)が、デビュー35周年を迎える。井上がプロレスラーを目指したころは、1983年にデビューした長与千種とライオネス飛鳥による「クラッシュ・ギャルズ」が絶大な人気を誇り、女子プロレスが大ブームを巻き起こしていた。

 

 本人が語る。

 

 

「小さいころから『ビューティ・ペア』のファンだったので女子プロレスはよく見ていたんですが、レスラーには体が大きい人や、身体能力が高い特別な人しかなれないと思っていて、自分には無理だと思っていました。ところがミミ萩原さんや立野記代さんのように、けっして大柄ではないのに結果を残す選手が出てきて、『私にもできるかも!』と思ったんです」

 

 このとき井上は中学2年生。全日本女子プロレス(以下、全女)の「受験資格は15歳~18歳まで」というオーディションのテロップを見て、1985年、中学3年生のときにはじめてオーディションに挑戦した。だが、このときは女子プロレスブームの真っ只中。何千人という女子がオーディションに挑戦するも、その年の合格者はわずか15人ほどだった。

 

「その年は北斗晶さんが合格し、私は不合格。それから全女の練習生になって茨城県の取手から全女のジムまで、1時間30分かけて、ほぼ毎日通いました。高校では陸上部に入っていたので、朝練をしたら早弁して授業を受けて、またお弁当を食べて(笑)。留年しないように単位を計算して学校を早退して、練習に行っていました。オーディションに受からないので、もう必死でした。私の人生でいちばん頑張ったのは、この3年間じゃないかというぐらいでした(笑)」

 

 4回めの挑戦で、数千人のなかからわずか10人ほどしかいない合格を手にする。オーディションは書類選考に通ると、前転と後転と平均台を歩くだけのもので、何が評価されているのかわからなかったという。

 

「合格したときは、私だけ面接で審査員の人に後ろを向いて質疑応答をしたんです。お尻が格闘技向きだったんですかね(笑)」

 

 こうして念願の全女のオーディションに合格。3年のあいだ練習生として通っているときに、いじめがあることなどのいろいろな噂は聞いていたが、実際に「全女」の一員になってみると、その雰囲気は想像以上で、嫌な空気が流れていたという。さらに体重が60キロ以上ないと巡業に同行できないなど、一握りの選ばれた人間のなかから、さらにふるいにかけられた。

 

「一日中練習をしているから、必死に食べても体重は減る一方。体重測定のときはジャージの中に濡れたタオルを仕込んだりしていました(笑)。それでも全然体重が足りなくて、連れて行ってもらえないことが多かったですね」

 

 1988年にデビューするが、リングを設営したり、売店に立ってお客さんの接客をしたりと、下積み生活を過ごしていた井上。全女に入って2年めの20歳のとき、その将来を大きく変える出来事が起きた。

 

「全女とフジテレビが組んで“戦う森高(千里)”のようなアイドルレスラーを作ろうということになり、突然『お前がやることになったから』と、話が進むことになって。写真集とビデオとCDの3点セットで売り出されることになったんですが、まだ全然、プロレスがうまくできないころだったので、ほかの選手たちからは反感を買ってしまったんです。でも、会社の命令には逆らえないから、板挟みのような感じでした。

 

 正直、最初はアイドル的なことは嫌々やっていましたね。そうした仕事のために、私だけバス移動ではなくて車で移動したりしたことで、同期以外は、挨拶もしてくれなくなりました。ほかの選手のファンに『かわいこぶってんじゃねえよ!』って言われたりして。でももう後戻りでできないから、とにかく練習をしようと、仕事が終わって深夜に道場に戻って、黙々と練習をしていました」

 

 1st写真集『Sel:FISH』(1992年)とビデオ『TAKAKO 夢の扉』(1991年)をハワイロケで撮影。『奇跡の扉』でCDデビューも果たした。週刊誌などのグラビア撮影も増え、彼女自身が「写真を撮られるのが好き」と感じるようになったころ、3冊めの写真集『ヴェルティージュ』(1994年)の話が舞い込む。

 

「マネージャーが『何カットかだけ、ヌードになるよ』って。当時はヌード写真集のブームもあったので、そういう話がきたんだと思います。その後もマネージャーに『やっぱり女子プロレスラーで“初”ということでやらないと。誰かが先にやっての二番煎じでは意味がない。今は女子プロレスが盛り上がっているし、今やらないでいつやるの? 今でしょ!』という感じで説得されて(笑)。『わかりました、やります!』とう感じでしたね。

 

 サイパンで撮影したんですが、『下着の跡がつくから』と、最初からすっぽんぽん。食事以外はほぼ裸でした(笑)。“何カットかだけ”どころか、出来上がってみたらほぼオールヌードでした」

 

 女子プロレスラーで初となったオールヌード写真集は話題をさらい、1995年に刊行した4冊めの写真集『ボディ・オイル』ではヘアヌードにも挑戦した。

 

「当時、『ラスタとんねるず‘94』(フジテレビ系)に、ほぼレギュラーのように出演していて、番組でとんねるずさんが宣伝してくれたこともあり、『ヴェルティージュ』が爆発的に売れたんです。それでちょっと味をしめちゃって(笑)。

 

『ボディ・オイル』はカメラマンがリウ・ミセキさんで、ウエストはボンテージでぐわっと締め付けられて8センチぐらいくびれてたし、『こういう構図で撮影するから、眉毛も半分剃って』と言われて半分剃りました。顔の角度が1ミリずれたら撮り直すみたいな世界で、おっぱいがちょこっと出てるぐらいの感じ。きれいに撮っていただいた芸術的な作品で、エロさはなかったですね」

 

 井上は、5冊めの『PEAK BLUE』(1997年)から、打ち合わせ時にコンセプトや撮影のシチュエーションなどについて意見を出すようになった。毎回「これが最後」と思って精一杯取り組んでいたので、自分でも納得のいくものを作りたかったからだという。

 

「私が提案したのは、倉庫で泥まみれになっての撮影。プロレスラーが出すヘアヌード写真集なら、ほかのタレントさんのものとは違うものにしたいなって。筋肉をきれいに出したいと思って、オイルの上に泥を塗って撮影したんです。すごくいい写真が撮れたんですが、顔も体もすべて泥だらけ。撮影の後はどうやって帰ったんだろうって思います(笑)」

 

 井上はデジタル写真集も含めると10冊の写真集を出している。そんな井上が「これだけは無理!」と思った撮影がある。それは写真集『KINBAKU』で撮影したあるポーズだ。

 

「古い民家で撮影したんですが、マネージャーが『この梁から足だけで吊るしたらどう?』と。私もぶら下がるだけならいいかなっていう甘い気持ちでOKを出したんですが、カメラマンやスタッフのみなさんが『本当にいいの? 本当にやるの?』と、すごい心配するんですよ。

 

 足を縛られて、男性に担いでもらって梁に吊るす直前に、パンツをハサミで切られて『行くよ、いい?』みたいな感じで、現場にはピーンと緊張感が溢れてて。『じゃあ離すよ』と言われて『お願いします』と言ったか言わないかの瞬間に、『もうだめだ! だめだ!! 下ろして!!』って叫んでました(笑)。足だけで逆さに吊るされるのが、こんなに辛いとは思ってなくて、本当にびっくりしました。みなさん、この辛さを知っていたから、あんなに『本当にいいの?』って確認したんだなって。もう練習や試合の辛さや痛さなんて比べ物にならないでレベル、拷問でした(笑)。

 

 ただ、カメラマンさんが1カットしかシャッターを切れなかったので、もう一回だけやってほしいと懇願されて、もう一度だけ吊るされたんです。2回目も『無理!!!』と叫んで一瞬だけ。合計2カットしか撮れなかった貴重なカットは、写真集に載っています」

 

 井上にとって、これまで挑んできた写真集は“作品”だという。

 

「どれだけ世の殿方に興奮してもらえるか。いろんなことを想像してもらえるかです。女性が買って楽しめる写真集という考えはなかったですね。写真集のおかげか、SMの写真の切り抜きを入れて『僕にこんなプレーをしてください』なんていうファンレターも届くようになりましたけど(笑)。あとは、すべてが記入されていて、あとは私が書くだけという婚姻届もよく届きました。自分の経歴を書いた何枚もある自己紹介もありましたね。これは今も届くんですが、どうしたいんだろう(笑)」

 

 そんな井上は11月21日に東京ドームシティホールで「井上貴子 デビュー35周年記念イベント~ひとしずくの勇気~」を開催する。

 

「写真集も『売れなきゃだめ』という強い信念のもとでやってきました。写真集が売れて人気が出れば、まわりの人は認めざるを得ない。そうやって努力をして自分の道を切り開いてきましたが、何をするにも勇気がいりました。プロレスなら、新人時代、リングに上がるのが怖かったときに振り絞った勇気、先輩に立ち向かっていくときの勇気。写真集なら脱ぐときも勇気がいったし、吊るされたときも勇気がいった(笑)。小さいことから大きなことまで、いろいろな勇気を積み重ねてきた35年だと思っています。

 

 歳を重ねるとなかなか難しいけど、背中を押してくれる人、応援してくれる人がいれば勇気は出てきます。それを大事にしていきたいですね。イベントでは3対3のタッグ戦をやります。もともと私の試合を観に来て、手紙やプレゼントを持ってきてくれていたMarvelousで活躍している桃野美桜が『夢は貴子さんの横に立つこと』と言ってくれているので、井上京子と桃野美桜と私でタッグを組みます。対戦するのはアジャコングさんと神取(忍)さんというゴージャスな2人に、今をときめくウナギ・サヤカ。リングで35周年の派手な花火をあげたいですね」

 

いのうえたかこ
1969年11月7日生まれ 茨城県出身 LLPW-X所属。全日本女子プロレスのオーディションに合格し、1988年後楽園ホールでデビュー。1992年に写真集を発売、その後、バラエティ番組などでも活躍。今も現役を続け、10月に35周年を迎える

( SmartFLASH )

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